ひぐらしの鳴く日
バスは、静寂から喧騒へと山道をゆっくりと下っていた。
美砂子は窓際の席に座り、流れていく若葉の景色を見つめている。
車内は静かだった。
観光帰りらしい乗客たちも、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。
だが美砂子の耳には、今も小乃の声が残っていた。
「かこちゃん・・・」
小乃は窓の外へ目を向けた。
その言葉を最後に、小乃はしばらく黙り込んだ。
美砂子の脳裏に、語られた記憶の断片がゆっくりと形を成していく。
それは、長年、映画に携わって来た者の本能だったかもしれない。
昭和十九年。
京北の山々に囲まれた杉ノ谷は、地図にも小さくしか載らない集落だった。
谷を流れる清流。
段々に広がる田畑。
春になれば山桜が咲き、冬には深い雪が村を包む。
人々は農業と林業で暮らしを立てていた。
豊かではなかったが、自然とともに生きる穏やかな日々があった。
その集落で、戸籍謄本の女性の両親は暮らしていた。
奥村健吉と和子。
小乃の幼い頃からの顔見知りだった。
同じ学校へ通い、
同じ山で遊び、
同じ川で魚を追いかけた。
いつから好きになったのか。
本人たちにも分からなかった。
気が付けば隣にいるのが当たり前になっていた。
二人とも幼い頃に両親を亡くしていた。
寂しさを口にすることはなかったが、誰よりもその気持ちを分かり合える相手だった。
だからだったのかもしれない。
いつしか健吉の隣には和子がいて、和子の隣には健吉がいた。
派手な結婚式はなかった。
村の人たちに祝福され、小さな祝宴を開いただけだった。
それでも二人は幸せだった。
朝になれば健吉は畑へ出る。
和子は家事をしながら畑を手伝う。
夕方になると一緒に家へ戻る。
囲炉裏を囲みながら夕食を食べる。
そんな毎日だった。
ある日の夕暮れ。
畑仕事を終えた二人は、家の裏手にある小さな坂へ腰を下ろしていた。
山の向こうへ夕日が沈もうとしている。
健吉は隣の和子を見て言った。
「子どもが、おーきいなったら、川遊びを教えたらなあかんな」
「そんなん、まだ、早いわ」
和子は小さく笑った。
お腹には新しい命が宿っていた。
「まだ男の子か女の子かも分からへんのに」
「どっちでもええやないか」
健吉は照れ臭そうに笑う。
和子もつられて笑った。
山の風が静かに吹いていた。
二人とも、その時は信じていた。
来年も、その次の年も。
同じ景色の中で暮らしていくのだと。
戦争が、自分たちの人生を変えてしまうなど思いもしなかった。
夏が近づいていた。
杉ノ谷の田んぼは青々とした稲で埋まり始めていた。
朝早くから村人たちは畑や田へ出る。
戦争は続いていたが、山深い集落ではまだ日々の暮らしが優先だった。
その日も健吉は畑に出ていた。
和子は洗濯を終え、縁側で一息ついている。
そこへ近所に住む小乃がやって来た。
幼い頃からの顔なじみだった。
小乃は縁側へ腰を下ろすと、和子のお腹を見て笑った。
「だいぶ大きゅうなってきたなあ」
和子も照れくさそうに笑う。
「最近よう動くんや」
「男の子やろか」
「まだ分からへんわ」
「私は女の子やと思う」
「なんで?」
「なんとなくや」
二人は声を立てて笑った。
穏やかな昼下がりだった。
山から吹く風が軒先の風鈴を揺らしている。
小乃はそっと和子のお腹に手を当てた。
「元気に生まれてきてくれたら、それでええな」
小乃がそう言った時だった。
庭先から足音が聞こえてくる。
畑から戻ってきた健吉だった。
首に掛けた手拭いで汗を拭きながら笑う。
「おう、小乃ちゃん。来てたんか」
「もう、毎日、お腹ん中の赤ちゃんが気になって気になって」
「それは、おおきに。まだ海のもんとも山のもんとも分からへんけどな」
「今日は畑、早かったんやな」
「昼までで切り上げたんや」
健吉はそう言うと縁側へ腰を下ろした。
そして和子のお腹を見て微笑む。
穏やかな昼下がりだった。
その時だった。
坂道の方から一人の男が上ってくる。
役場の職員だった。
男は真っ直ぐ奥村家へ向かって来た。
庭先で足を止める。
そして静かに声を掛けた。
「おるか?」
「はい」
和子が答える。
小乃も視線を向けた。
男は何も言わず、その場に立っていた。
やがて鞄から一枚の封筒を取り出した。
「おめでとうさん」
その声はどこか沈んでいて、村中で何度も同じ封筒を配ってきた顔つきをしていた。
健吉は封筒を受け取る。
表に書かれた文字を見た瞬間、すべてを理解した。
しばらく誰も言葉を発しない。
山から吹く風だけが通り過ぎる。
小乃はただ黙って立ち尽くしていた。
和子は健吉の顔を見つめている。
やがて健吉は小さく息を吐いた。
「とうとう、わしにも来たか」
その一言だけだった。
男は深く頭を下げると、何も言わず帰っていった。
和子のお腹の子は日に日に大きくなっている。
健吉は封筒を握ったまま空を見上げた。
夏の青空がどこまでも広がっている。
やがて視線を和子へ向けた。
「わしは、そう簡単に死なへん」
和子は目に涙を溜めながら、小さく頷いた。
ひぐらしの声が山間に響く――。
大原から戻った美砂子は、高瀬川に架かる小さな橋の上に立っていた。
山々に囲まれた静かな里とは違う。
木屋町には人々の話し声が溢れ、飲食店の灯りが川沿いを照らしている。
どこかの店から聞こえてくる笑い声。
夕暮れの街は賑わいを増し始めていた。
美砂子は橋の欄干に手を置き、水面を見つめた。
耳の奥には、まだ小乃の声が残っている。
――健ちゃんと、かこちゃんか……
――古い話やなぁ
知らないはずの人たち。
見たこともない景色。
それなのに、不思議なほど懐かしかった。
まるで遠い記憶を、自分もどこかで見ていたような気がする。
ふと、美砂子はバッグからスマートフォンを取り出した。
朝から一度も見ていなかったことに気付く。
画面にはいくつもの通知が並んでいた。
だが、美砂子は内容を確認することなく画面を閉じた。
今はまだ現実へ戻る気になれなかった。
美砂子はゆっくりと橋を渡り始めた。
川沿いの石畳を歩く。
店々の灯りが水面に揺れていた。
街は何事もなかったように夜を迎えようとしている。




