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九十年の向こう側

翌朝。

ホテルの窓から差し込む柔らかな朝日で、美砂子は目を覚ました。

しばらく天井を見つめる。

昨夜の出来事がゆっくりと蘇ってきた。

雑草に覆われた空き家。

藤村小乃という名前。

そして、木屋町のレストランで見た一枚の写真。

美砂子は枕元のスマートフォンを手に取った。

時計は午前八時を少し回っている。

少し迷ったあと、老人から渡されたメモを開いた。

そこには大原の介護施設の名前と電話番号が記されている。

深く息を吸う。

そして発信ボタンを押した。

数回の呼び出し音の後、女性の声が聞こえた。

「お電話ありがとうございます」

美砂子は名乗り、藤村小乃という入所者について尋ねた。

受話器の向こうで確認する気配がする。

わずかな沈黙。

やがて返ってきた言葉に、美砂子は背筋を伸ばした。

「はい。藤村様は現在もこちらでお過ごしです」

胸の奥が小さく震える。

「あ、そうですか、面会は可能でしょうか」

「ご親族の方ですか?」

美砂子は一瞬だけ言葉に詰まった。

「い、いえ……知人を通じてお話を伺いたくて」

施設の職員は穏やかな声で応じた。

「そうでしたか。藤村様ですが、現在百歳を迎えておられます。面会そのものは可能ですが、その日の体調によってはお会いできない場合もございます」

「そうですか……」

「また、認知機能の低下もございますので、お話が十分にできるかどうかは分かりません。昔のことをはっきり覚えておられる時もあれば、ご自身のお名前も分からなくなる時もございます」

美砂子は受話器を握る手に力を込めた。

それでも、小乃は生きている。

七十年以上の時を越えて。

「それでも、お会いしたいんです」

しばらく沈黙が続いた。

やがて職員は優しく言った。

「分かりました。では一度お越しください。藤村様の体調が良ければ、お部屋で面会していただけます」

「ありがとうございます では、早速ですが、今日は、いかがでしょうか。」

「はい、少々お待ちください。」

また、沈黙が続いた。

「はい、今日は、ご体調がいいようです。では、2時から4時の間にお越しいただけますか」

「分かりました よろしくお願いします。」

電話を切る。

部屋の静寂が戻った。

けれど昨日までとは違っていた。

ようやく会える。

空き家の先にいた人。

過去を知る人。

美砂子は静かに立ち上がった。

窓の外には青空が広がっていた。


午後1時過ぎ。

美砂子は四条河原町のバス停に立っていた。

通りの先から大原行きのバスがゆっくりと姿を現す。

乗客は観光客らしい人々が多かった。

美砂子は最後尾の窓際へ腰を下ろした。

扉が閉まる。

バスは静かに走り始めた。

京都の街並みが窓の外を流れていく。

やがて車窓に鴨川が現れた。

朝の光を受けた川面が静かに輝いている。

川沿いでは散歩をする人の姿も見えた。

その穏やかな流れを横目に、バスは北へ向かう。

街並みは少しずつ変わっていった。

高い建物が減り、住宅地が広がる。

やがて高野川が見えてくる。

山から流れてきた澄んだ水が、ゆったりと川幅を広げながら流れていた。

窓を流れる景色を見つめながら、美砂子は膝の上のバッグを握る。

中には戸籍のコピーが入っている。

昨日までは紙切れにしか見えなかった。

だが今は違う。

その一枚が、自分をここまで連れてきた。

バスはさらに北へ進む。

街は次第に遠ざかり、緑が増えていく。

道路の両側には木々が並び始めた。

山の気配が近づいてくる。

つづら折りの道路。

窓の外を流れる景色は、どこか昨日訪れた集落を思わせた。

過去へ向かっている。

そんな気がした。

やがてバスはゆるやかな坂道を上る。

山々に囲まれた谷あいの景色が広がる。

春の終わりの風が若葉を揺らしていた。

バスは静かに大原へ向かっていた。

その先に、藤村小乃が待っている。


大原の山々は、新緑に包まれていた。

バスを降りた美砂子は、案内板を頼りに坂道を歩く。

柔らかな風が木々を揺らし、遠くで鳥の声が聞こえていた。

やがて見えてきたのは、白い外壁の介護施設だった。

美砂子は立ち止まり、建物を見上げる。

胸の奥が静かに高鳴った。

自動ドアが開く。

受付で名前を告げると、職員の女性が丁寧に応じた。

「三浦様ですね。藤村様との面会でお待ちしておりました」

案内されたのは小さな面談室だった。

窓からは大原の山並みが見える。

壁には季節の花の写真が飾られていた。

美砂子は椅子に腰を下ろす。

テーブルの上で両手を重ねた。

時計の針だけが静かに音を刻んでいる。

しばらくして、廊下の向こうから車椅子の音が聞こえてきた。

コト……。

コト……。

やがて扉が開く。

「藤村様をお連れしました」

介護職員に押されて、一人の老女が部屋へ入ってきた。

小柄な身体。

白くなった髪。

細い肩。

膝の上に置かれた手は、歳月を刻んだように痩せていた。

だが、その顔にはどこか逞しさが残っている。

職員は車椅子を美砂子の向かいへ止めた。

「藤村様、面会の方ですよ」

老女は反応しない。

窓の外をぼんやり見つめている。

美砂子はゆっくり立ち上がった。

「はじめまして。三浦美砂子と申します。」

返事はない。

「突然お伺いして申し訳ありません。お聞きしたいことがあって参りました。」

老女は微動だにしなかった。

美砂子は戸惑いながら職員を見る。

職員は申し訳なさそうに頭を下げた。

「最近、認知症が進んでおりまして……」

小さな声だった。

「日によっては、ご家族のお顔も分からないことがあるんです」

美砂子の胸に不安が広がる。

ここまで来て何も聞けなかったら。

そんな思いがよぎった。

だが、諦めるわけにはいかなかった。

美砂子はバッグから戸籍のコピーを取り出す。

少し色褪せた紙を静かに開いた。

そして読み上げる。

「私が探している方のお名前は――」

老女は動かない。

反応はなかった。

美砂子は続ける。

「本籍地は京都府北桑田郡京北町杉ノ谷――」

「父親のお名前は――」

静かな部屋に声だけが響く。

反応はない。

職員も黙って見守っていた。

「母親のお名前は――」

その瞬間だった。

老女の指先が、かすかに震えた。

美砂子は息を呑む。

老女の閉じかけていた瞳がゆっくりと開く。

遠い過去を見つめるような目だった。

やがて、その瞳に涙が浮かぶ。

一筋の涙が頬を伝った。

美砂子は思わず身を乗り出す。

老女は震える唇を動かそうとしている。

面談室に静かな沈黙が落ちた。

老女はゆっくりと美砂子を見つめる。

その瞳には、先ほどまでの空虚さはなかった。

九十年近い歳月の向こうから、失われていた記憶が少しずつ戻ってくるようだった。

そして小乃は、小さく頷いた。

そして、唇が震えた。

「か、かこちゃん・・・」













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