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写真の裏側

夜の先斗町。

細い路地に、柔らかな灯りが並んでいた。

石畳の道。

古い格子戸。

昔から残る建物もある。

けれど、今ではそこに並ぶ店の多くは、新しい飲食店へと姿を変えていた。

昔のように、お茶屋や置屋の数は少なくなっている。

華やかな料理店の看板。

行き交う若い人たちの声。

時代とともに、この街も少しずつ変わっていた。

それでも――。

路地の奥に残る灯りや、古い建物の佇まいの中には、何十年分もの人の記憶が静かに残っているように感じられた。

美砂子は、その中をゆっくり歩いていた。

何十年も前。

この街に、一人の女性が幼い娘を抱いてやって来た。

戦争で夫を失い。

故郷を離れ。

何も分からない場所で、生きていくために。

その人の名前は、奥村和子。

娘の名前は、千代子。

美砂子は、一軒の古いお茶屋の前で足を止めた。

今も残る、数少ない昔ながらの店だった。

少し迷ってから、静かに戸を開ける。

「こんばんは。」

中から出てきた着物姿の年配の女性が、美砂子を見る。

「はい」

美砂子は頭を下げた。

「少し、お聞きしたいことがあるのですが……」

そして、和子のことを話し始めた。

昭和二十年頃。

戦争が終わった頃。

杉ノ谷という場所から来た女性。

幼い娘を連れて、この先斗町で働いた人。

「奥村和子さんという方ですが」

女性は黙って聞いていた。

しばらく考えた後、静かに首を振った。

「すんまへん……」

「その頃のことを知ってる人は、もう、ここには、いやらへんと思います」

美砂子は小さく頷いた。

「そうですよね……」

「ありがとうございました」

外へ出る。

冷たい夜風が吹いていた。

美砂子は、もう一度、周囲を見渡した。

変わっていく街。

その中で、誰にも知られないまま消えていった人生がある。

でも。

確かに、ここで誰かが生きていた。

その証を探すように、美砂子はまた歩き始めた。

美砂子は、しばらく先斗町の路地を歩いた。

灯りの消えた古い格子戸。

その奥に、まだ昔を知る人がいるような気がした。

次に向かったのは、少し離れた場所にある置屋だった。

ここでも同じように尋ねた。

けれど、答えは変わらなかった。

「知りまへんなぁ」

美砂子は、最後に訪ねた家を出た。

夜風が吹いていた。

先斗町の灯りは、相変わらず美しかった。

人々は笑い、店の中では誰かの人生が続いている。

でも、その華やかな街のどこかに、

確かにあの子がいた。

幼い娘を抱えて、不安な夜を越えた未亡人がいた。

美砂子は、静かに路地を見つめた。


その時だった。

「あの……」

後ろから声がした。

美砂子は振り返った。

そこには、一人の若い女性が立っていた。

「……はい?」

見覚えがあるような気もした。

でも、どこで会ったのか、すぐには思い出せない。

女性は少し迷うようにしてから、口を開いた。

「間違ってたら、ごめんなさい 昨日、お店に来られた方ですよね……」

美砂子は首を傾げる。

「古い写真を見たはりましたよね」

その言葉を聞いた瞬間、美砂子の中で記憶が戻った。

あの一枚の写真。

無表情の若い芸者。

その隣で微笑む外国人の軍人。

「あ……」

美砂子は小さく声を漏らした。

「あなた……」

女性は笑った。

「やっぱり、そうですよね 昨日、あの写真のことを聞いていた方ですよね」

美砂子は頷いた。

「はい…… 覚えていてくださったんですね」

「印象に残ってたんで」

女性はそう言った。

「あの写真を、あんなに長く見ているお客さんは珍しかったから」

美砂子は少し黙った。

そして、静かに言った。

「実は、あの写真のこと、ちょっと気になってるんです」

女性は驚いたように美砂子を見る。

「そうですかぁ 今日はお店、休みなんでけど、オーナー、トイレの改修工事の打ち合わせで、今、店に、いはると思いますけど 聞いてみはりますか?」

美砂子は、静かに頷いた。

なぜか分からない。

でも、この出会いが偶然ではないような気がしていた。


二人は、先斗町の路地を抜け、木屋町へ向かって歩いていた。

夜の木屋町は、多くの人で賑わっていた。

川沿いに並ぶ店から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

高瀬川の流れが、街の明かりを静かに映していた。

女性は、美砂子の隣を歩きながら尋ねた。

「失礼ですけど、どちらから来はったんですか?」

美砂子は少し笑った。

「東京です」

女性は頷いた。

「京都には、お仕事で? それとも観光ですか?」

美砂子は少し考えた。

そして、静かに答えた。

「一応、仕事です」

里香の足が少し止まった。

「京都は何回もこられてるんですか」

美砂子は首を横に振った。

「いいえ 5年前に撮った映画で初めて、来たのは、それ以来です」

女性は驚いたように美砂子を見る。

「映画……って?」

「私、映画監督をしているんです」

女性は驚いたように美砂子を見る。

「映画監督さん…… すごいですね」

美砂子は首を横に振った。

「そんな大したものじゃありませんよ」

しばらくすると、路地の先に、小さな店の明かりが見えていた。

女性が静かに言った。

「何か、あれ不思議な写真ですね 誰かに見つけてもらいたかったんかもしれませんね」

まだ、お互いのことをほとんど知らない。

けれど。

あの一枚の古い写真が、二人を同じ場所へ導いていた。


二人は、しばらく夜の木屋町を歩いた。

川沿いの灯りが、高瀬川の水面に揺れている。

「そういえば……まだ名前、言うてませんでしたね」

美砂子を見る。

「私、清水里香って言います」

美砂子も少し笑った。

「三浦美砂子です この名前、聞いたことありますか」

女性は少し困った顔をして。

「い、いいえ 私、映画の事はあまり知らないので」

「ですよね」

二人は小さく笑った。

やがて、美砂子が昨日訪れた小さなイタリアンレストランの前に着いた。

里香が戸を開ける。

店の中に入ると、里香がオーナーへ声を掛けた。

「オーナーさん」

作業の話をしていた男性が振り返る。

「あれ? 里香ちゃん どうしたん?」

里香は美砂子を見る。

「お客さん、お連れしました」

「お客さん?」

「昨日、来られた方お客さんです、 さっき、ばったり木屋町でお会いしたんです」

オーナーの視線が、美砂子へ向いた。

美砂子は軽く頭を下げた。

「三浦美砂子と申します」

そう言って、名刺を差し出す。

オーナーは名刺を受け取り、しばらく見つめた。

「……三浦美砂子さん 映画監督?」

そして、少し驚いたような表情を浮かべて、ポケットから名刺を取り出し、美砂子へ渡した。

「私、この店をやっている稲垣陽一と申します」

稲垣から名刺を受け取った美砂子は、もう一度、店の中を見渡した。

古い町屋の柱。

残された梁。

新しい店の雰囲気の中にも、昔の京都の面影が残っていた。

その時、里香が思い出したように口を開いた。

「あの……オーナーさん」

「ん?」

「三浦さん、廊下にかかってる写真のことを聞きたいそうです」

稲垣の表情が少し変わった。

「写真って?」

里香は頷く。

「芸者さんと、外人さんが写っている古い写真です」

その言葉に、美砂子も静かに頷いた。

稲垣は、ゆっくりと廊下の方へ視線を向けた。

そして、三人は、廊下の壁に掛けられた写真の前へ向かった。

無表情の若い芸者。

その隣で、穏やかに微笑む外国人の軍人。

美砂子は、改めてその写真を見つめた。

稲垣は、少し笑いながら言った。

「なかなかの美男美女でしょ」

「……はい」

美砂子は小さく頷いた。

何十年も前の写真なのに、二人の表情には不思議な存在感があった。

稲垣は写真を見ながら続けた。

「この写真、店を始める前に見つけたんです」

「どこでですか?」

「下鴨神社の古本市です」

美砂子は顔を上げる。

「古本市……」

「ええ。古い本や、昔の写真なんかを扱っている店があってね。その中に、この写真があったんです」

稲垣は、もう一度写真を見る。

「なんとなく気になりまして。店を作る時に、ここに飾ろうと思ったんです」

美砂子は、写真から目を離さずに聞いた。

「この二人のことは……何か分かっていますか?」

稲垣は少し考えた。

そして、ゆっくり首を横に振る。

「いいえ……詳しいことは何も」

そう言って、もう一度写真を見る。

「ただ、多分ですけど」

「はい」

「終戦直後の頃じゃないかと思います」

美砂子は静かに聞いていた。

「京都にも進駐軍がいた時代ですから。外国の軍人が芸者さんと写真を撮ることも、珍しくなかったでしょうし」

写真の中の男性を見る。

「この雰囲気からすると、その頃に撮られたものじゃないかなと」

美砂子は頷いた。

稲垣は、ふと写真の奥へ目を向けた。

「それに……」

「それに?」

「後ろの床の間に掛かっている掛け軸」

美砂子も写真を見直す。

小さく写る床の間。

そこに描かれている花。

「椿でしょうか」

稲垣は頷いた。

「ええ。だから、もしこの写真が当時のものなら……季節は冬だったのかもしれません」

美砂子は、もう一度、写真の中の二人を見つめた。

冬の京都。

戦争が終わったばかりの街で。

この二人は、どんな時間を過ごしていたのだろう。

稲垣は、しばらく写真を見つめていた。

「実は……」

美砂子が顔を上げる。

「実は……この写真が冬に撮られたと思う理由が、もう一つあるんです」」

「理由……ですか?」

稲垣は静かに額縁へ手を伸ばした。

そして、壁から写真を外す。

古い額縁の中から、ゆっくりと写真を取り出した。

里香も横から覗き込む。

稲垣は写真を裏返した。

表には写っていなかったものが、そこに残されていた。

美砂子は息を止める。

「これなんです」

稲垣が静かに言った。
























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