かこちゃん
店を出ると、夜の木屋町の空気が二人を包んだ。
高瀬川の水面には、街の灯りが静かに揺れている。
美砂子は、もう一度だけ店の方を振り返った。
あの写真。
無表情の芸者と、微笑む外国の軍人。
そして、その裏に残されていたもの。
頭の中から離れなかった。
隣を歩いていた里香が、ふと声を掛ける。
「三浦さん」
「はい?」
「お腹、空いたはりませんか?」
美砂子は少し驚いたように笑う。
「いえ、大丈夫です」
すると里香は少し遠慮がちに続けた。
「もしよかったら…… 私の家、御所の近くで小料理屋をしてるんです」
「家って……」
「母の店なんですけど」
里香は笑った。
「まだ少し時間もありますし、よかったら寄って行かれませんか?」
美砂子は少し迷った。
けれど、里香の人懐っこさに、つい、返事をしてしまった。
「じぁ、せっかくですし」
里香は嬉しそうに頷いた。
「はい」
二人は、高瀬川沿いの道を離れた。
観光客で賑わう夜の京都の街を、ゆっくり歩いていく。
そして、その先にある、もう一つの京都。
和子が生きた時代へ続く、小さな入口のような場所へ向かっていた。
しばらくすると、小さな店の前で里香が足を止めた。
古い木の看板。
その下には、白いのれんが掛かっている。
「美味しいお酒とおばんざい」
控えめな文字が、柔らかな灯りに照らされていた。
「ここです」
里香が笑う。
美砂子は店を見上げた。
大きな店ではない。
けれど、長い時間、人の暮らしを見てきたような佇まいだった。
里香が戸を開ける。
「ただいま」
小さな音を立てて引き戸が開く。
店の中は静かだった。
カウンターの向こうには、一人の女性が立っていた。
四十代後半くらいだろうか。
料理の仕込みをしていた手を止め、顔を上げる。
「おかえり」
そう言ってから、里香の後ろにいる美砂子を見る。
店内には、他に客はいなかった。
カウンターには綺麗に並べられたおばんざい。
小さな器に盛られた料理。
静かな店内には、出汁の香りだけが漂っていた。
「お母ちゃん」
里香が言う。
「こちら、三浦さん」
女性は少し驚いたように見る。
美砂子は軽く頭を下げた。
「こんばんは」
女性は笑顔を浮かべた。
「おこしやす」
その声は、初めて来た美砂子を優しく迎える声だった。
夜の京都の片隅にある、小さな店。
里香の母は笑顔で二人を迎えた。
「とりあえず、お飲み物どうしまひょ?」
美砂子は少し考える。
「では……ビールをお願いします」
「はい」
母は頷き、冷蔵庫へ向かった。
里香はカウンターの椅子に座りながら、母を見る。
「三浦さんな バイト先のお客さんなんよ」
「そうなん」
母はグラスを用意しながら聞いている。
すると、里香は少し嬉しそうに続けた。
「それで……映画監督さんなんやて」
その瞬間、美砂子は少し困ったように笑った。
「里香さん……」
「え?」
「そんな大げさに言わなくても」
里香は首を傾げる。
母はそんな二人を見て、微笑む。
「映画監督さんどすか」
「はい……一応」
「一応って」
里香が笑う。
美砂子もつられて笑った。
静かな小料理屋のカウンター。
初めて会ったはずの三人だったが、不思議と昔から知っているような温かい空気が流れていた。
それから、一時間ほどが過ぎていた。
カウンターには空いた小皿が並び、美砂子のビールも二杯目に変わっていた。
店内には相変わらず客はいない。
静かな時間が流れている。
里香は母が料理を盛り付ける姿を見ながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、おばあちゃん、元気にしたはった?」
母は手を動かしたまま答える。
「元気やで、相変わらず口だけは達者やけどな」
里香が笑った。
「それやったら安心やわ」
少し離れてその会話を聞いていた美砂子が、グラスを置いた。
ほんのり頬が赤くなっている。
「おばあちゃんって……?」
里香が振り返る。
「はい?」
「今、言ってた、おばあちゃん」
すると里香は当たり前のように答えた。
「お母ちゃんのお母ちゃんです」
美砂子は思わず笑った。
「それはそうだけど」
「何言うてるんですか」
里香もつられて笑う。
店の中に、柔らかな笑い声が広がった。
しばらくして、里香は、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あ……そういえば」
「ん?」
母が振り返る。
「おばあちゃんって、若い時、舞妓さんやったんやんな」
その言葉に、美砂子の手が止まった。
「舞妓さん……?」
里香は頷く。
「はい。昔、舞妓さんしてたって聞いたことある」
そして、母を見る。
「なぁ、お母ちゃん」
「ん?」
「おばあちゃん、どこの舞妓さんやったっけ?」
母は少し考えるような仕草をしてから、答えた。
「先斗町やで」
その瞬間。
美砂子は顔を上げた。
「……先斗町」
小さく呟く。
頭の中に浮かぶ。
あの写真。
無表情の若い芸者。
その隣で、穏やかに微笑む外国の軍人。
偶然だろうか。
美砂子は静かに息を吐いた。
写真の二人。
そして――。
戦後の京都で生きた、一人の女性。
すべてが同じ場所へ向かっているような気がした。
「おばあさま……」
美砂子は静かに尋ねる。
「いつ頃、舞妓さんをされていたんですか?」
母は少し遠くを見るような顔になった。
「もう、ずいぶん昔やね 戦争が終わった頃……その頃の話やと思います」
それを聞いた美砂子の胸が少し揺れた。
けれど、胸の奥に浮かんだ思いを抑えられなかった。
「あの……」
里香の母を見る。
「その、おばあさまに……お会いすることはできますか?」
母は少し驚いた顔をした。
「母にですか?」
美砂子は頷く。
「はい」
そして、少し言葉を選ぶ。
「実は、映画の取材で…… 戦争が終わった頃の京都のことを調べているんです その頃の先斗町の様子や、そこで暮らしていた人のお話を聞けたらと思って」
母は美砂子の表情を見る。
真剣な目だった。
しばらくして、柔らかく笑った。
「そういうことなら…… 明日はデイサービスも休みの日やし たぶん大丈夫やと思います」
「本当ですか」
美砂子の表情が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
すると、横で聞いていた里香が口を開いた。
「それやったら」
二人が見る。
「私が案内します 久しぶりに、おばあちゃんに会いたいし」
里香は笑った。
美砂子は静かに頷いた。
一枚の古い写真から始まった出会い。
それが少しずつ、過去の記憶へ繋がっていく。
まだ誰も知らない。
その先に、一人の女性の人生が待っていることを。
翌日。
美砂子は、里香の車に乗っていた。
窓の外には、初夏の京都の街並みが流れている。
青々とした木々。
行き交う人々の姿。
車内には、穏やかな時間が流れていた。
しばらくして、里香が運転しながら口を開く。
「三浦さん」
「はい?」
「京都なんですけどね」
少し間を置く。
「時々、不思議な事が起こるんですよ」
里香は笑った。
美砂子は窓の外を見る。
そして、静かに頷いた。
「そうかも」
里香は前を見ながら、小さく頷いた。
初夏の京都の景色の中を、車はゆっくり走って行く。
仁和寺の近く。
静かな住宅街の中に、その家はあった。
古い門。
手入れされた庭。
長い年月を重ねた家の佇まい。
里香が玄関の戸を開ける。
「おばあちゃん、ただいま」
少しすると、奥から声がした。
「はいはい」
ゆっくりと現れた女性。
小柄で、穏やかな表情をした高齢の女性だった。
「里香ちゃんか」
「うん」
里香は笑う。
「今日はね、お客さん連れてきた」
女性は美砂子を見る。
「初めまして」
美砂子は頭を下げた。
「三浦美砂子と申します」
里香が紹介する。
「琴さん」
琴は優しく笑った。
「遠いところ、ご苦労さんどす」
その笑顔は、とても柔らかかった。
三人は居間へ通された。
畳の部屋。
窓からは、初夏の光が差し込んでいる。
最初は、琴は明るく里香と話をしていた。
昔の近所の話。
最近の体調の話。
里香の仕事の話。
その姿は、百年近く生きてきた人とは思えないほど穏やかだった。
けれど――。
美砂子は、少し姿勢を正した。
「琴さんは、先斗町で舞妓さんをされていたと里香さんからお聞きしました」
「はい、大昔ですけどな」
「それで、お伺いしたいんですけど……」
琴が美砂子を見る。
「奥村和子さんという方は、ご存知でしょうか」
その名前を聞いた瞬間。
琴の表情が止まった。
さっきまでの笑顔が消える。
ただ、静かに美砂子の言葉を聞いている。
「戦争が終わった頃、先斗町で働いていた女性です、幼い娘さんを連れて、京都へ来た方だと……」
琴は何も言わなかった。
ただ、遠くを見るような目をしていた。
美砂子はスマートフォンを取り出す。
「それと……」
画面を開く。
無表情の若い芸者。
その隣で微笑む外国の軍人。
「この写真の方のことも……」
琴の目が、画面に向いた。
次の瞬間。
琴の表情が大きく揺れた。
「……」
言葉が出ない。
震える手が、膝の上で動く。
そして――。
琴の目から、涙がこぼれた。
「おばあちゃん……」
里香が驚いて声を掛ける。
琴は画面を見つめたまま、小さく呟いた。
「かこちゃん……」
その声は、震えていた。




