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遠い空の向こう

数か月後。

それは、いつもの朝だった。

先斗町の細い路地には、店を開ける音が響き、川面には柔らかな光が揺れている。

藤村の帳場には、いつもの静かな時間が流れていた。

和子は帳面を整理しながら、ふと窓の外を見た。

先斗町の路地には、ぽつぽつと雨が降り出していた。

その時。

突然、電話のベルが鳴った。

「……はい。藤村です」

受話器を取った好江。

向こうから聞こえてきた声に、少し驚く。

「おはようございます。山城貿易の山本と申します。」

「ああ、踊りの会に来てくださった山本さんどすな。おはようさんどす。藤村の女将、好江どす。」

「その節はお世話になりました」

「いいえ、こちらこそ」

「ところで、和子さんはおられるでしょうか」

「はい、ちょっと待っておくれやっしゃ」

好江は廊下へ出ると、二階へ向かって声を掛けた。

「かこちゃん、電話どっせ!」

やがて階段を下りてきた和子が受話器を耳に当てる。

「はい、和子です」

「お久しぶりです。山本です」

「ああ、山本さん。お久しぶりどす」

和子の声が少し柔らかくなる。

「昨日、カートさんから手紙が届きまして……」

その瞬間。

和子の表情がこわばった。

「無事に朝鮮へ着いたそうです。元気にしておられるようですよ」

短い沈黙。

「……そうですか」

張りつめていたものが、ふっとほどける。

「こんなこと、お知らせするほどでもないかと思ったんですが……どうしても、和子さんにはお伝えしたくて」

その言葉に、和子は小さく微笑んだ。

「いいえ、ありがとうございます。知らせてくださって」

「それから――」

山本は少し笑って続けた。

「和子さんにまた会える日を楽しみにしている、と。それと、琴さんや千代子ちゃんにもよろしく伝えてほしいそうです」

「そうですか……ありがとうございます」

その後の会話は、和子の耳にはほとんど入ってこなかった。

胸いっぱいに安堵が広がっていた。

受話器を静かに置き、そっと目を閉じる。

その様子を見つめながら、好江は不思議そうに首を傾げていた。


それから、しばらく経ったある日の午後。

藤村の稽古場から、楽しそうな声が聞こえていた。

「千代ちゃん、そうそう。足はこうやって運ぶんよ」

琴が小さな手を取りながら、ゆっくりと教えている。

まだ幼い千代子は、一生懸命に真似をしていた。

「こう?」

「そう、そう、上手、上手」

琴が優しく笑う。

その様子を、和子は帳場の隅から静かに見つめていた。

着物姿の小さな千代子。

一生懸命に動く小さな手足。

戦争で夫を失い、故郷を離れ、今は藤村で千代子を育てながら暮らしている。

そんな和子にとって、こうして新しい命が何かを受け継いでいく姿は、小さな救いだった。

琴が千代子に言う。

「踊りはな、上手に見せるだけやない。見ている人の心に届けるもんなんよ」

その言葉に、和子はふと、あの日を思い出した。

舞台の向こうから、自分の舞をまっすぐ見つめてくれた人。

「もう一度、あなたの舞いを見たい」

そう言ってくれた人。

和子は千代子を見つめ、小さくつぶやいた。

「いつか……見てもらえたらええな」

藤村には、いつもの穏やかな午後が流れていた。

まさか、その静けさを破る知らせが届くとは、誰も知らなかった。


その翌日の朝。

置屋藤村の帳場では、和子が静かに掃除をしていた。

机の上を丁寧に拭く。

長い年月使われてきた木の机には、幾人もの人生が刻まれているようだった。

その時。

机の端に置かれていた一枚の新聞が目に入る。

「……」

紙面の大きな見出しが、和子の動きを止めた。

『朝鮮戦争勃発』

その文字。

一瞬、意味が頭に入ってこなかった。

けれど、次の瞬間。

雪の中で手を差し伸べてくれたカートの笑顔が胸によみがえる。

和子は思わず新聞を手に取った。

あの人は、今、どこにいるのだろう。

あの日、千代子の小さな背中を見ながら歩いた高瀬川の畔。

春風に揺れる金色の髪。

柔らかな陽の光を受けて輝く青い瞳。

今、その人が遠い異国の戦場にいるかもしれない。

そう思うだけで、胸が締めつけられた。

和子は窓の外へ目を向ける。

いつもと変わらない京都の朝。

雀のさえずり。

軒先を濡らす雨。

でも、海の向こうでは、また戦争が始まっている。

健吉の戦死の知らせを受け取った日の記憶が、静かによみがえる。

「どうか……ご無事で」

誰に聞かせるでもなく、そっとつぶやく。

新聞を静かに畳む。

まるで遠い戦地にいるカートへ、届かない祈りを込めるように。

和子はしばらく、その新聞を見つめていた。

やがて、居ても立ってもいられず、外へ出た。

雨に濡れた石畳。

細い路地を抜けると、高瀬川が静かに流れていた。

あの日。

カートと肩を並べて歩いた川。

最後に写真を撮った橋。

雨粒が川面に落ち、小さな波紋が幾重にも広がっていく。

和子は橋の欄干に手を添え、ゆっくりと空を見上げた。

額に小さな雨粒が落ちる。

遠い朝鮮の空も、今日はこちらと同じように灰色だろうか。

「どうか……」

声にはならない。

その祈りだけが、静かに胸の奥で息づいていた。

――どうか、生きていて。

梅雨空の京都を、高瀬川は今日も何事もなかったかのように流れ続けていた。


























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