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受け継ぐ音

その夜。

置屋「藤村」の灯りは、いつもより少し遅くまで消えなかった。

稽古を終えた和子は、自分の部屋へ戻っていた。

静かな廊下。

琴は、稽古場の前に正座したまま、しばらく襖を見つめていた。

昼間、聞こえてきた三味線の音。

そして、和子の舞。

昔とは違う。

でも、だからこそ心に響いた。

琴は小さく息を吐き、意を決したように襖を開けた。

「女将さん……」

好江は帳面を閉じて、顔を上げる。

「琴?」

「少し……お願いがあります」

好江は琴の真剣な表情を見る。

「なんや、改まって」

琴は正座をし、深く頭を下げた。

「うちに……長唄と三味線のお稽古をさせて下さい」

好江は少し驚いた顔をした。

「長唄と……三味線?」

「はい」

琴は顔を上げた。

「前は……」

少し声が震える。

「前は、私の隣に、かこちゃんがいてくれました」

好江は黙って聞いている。

「初めて立つ舞台、横で震えるうちを励ましてくれました 辛い時も、かこちゃんがいたから頑張れました」

そして。

「でも……」

琴は和子が稽古をしていた部屋の方を見る。

「今度は……」

「今度は、かこちゃんの隣に、うちがいたいんです」

その言葉に。

好江の表情が少し柔らかくなった。

「琴……」

「かこちゃんは、大切な人に舞を届けようとしています」

琴は続けた。

「その時、ただ見ているだけじゃ嫌なんです」

好江はしばらく黙っていた。

そして、ふっと尋ねる。

「ほんまに、言うてるんか?」

琴は少し驚いた顔をする。

好江は部屋の隅を見る。

「最近、夜になると誰もいひん時に、こっそり触ってたやろ」

琴の顔が赤くなる。

「……見てはったんですか」

「見んでも分かります」

好江は笑った。

「撥の持ち方で分かるわ」

琴は俯く。

「すみません……勝手に」

「謝ることやない」

好江は優しく言った。

「好きやったんやろ?」

琴は静かに頷いた。

「はい……」

「かこちゃんの舞を見ていて……」

琴は小さな声で続ける。

「私も、あんなふうに誰かの心に届くものを持ちたいと思いました」

好江は立ち上がり、三味線を手に取った。

「琴」

「はい」

「お稽古は甘くないえ」

「分かっています」

「泣くかもしれへん」

「それでも……おたのもうします」

琴は深く頭を下げた。

好江はしばらく琴を見つめる。

そして。

「よろしおす」

三味線を琴の前に置いた。

「今日から、始めまひょか」

琴は顔を上げた。

その目には、嬉しさと決意が浮かんでいた。

静かな稽古場に。

初めて琴のための三味線の音が響く。

その音はまだ拙かった。


稽古場には、まだ少し冷たい春の風が入り込んでいた。

「琴、姿勢」

好江の声が響く。

琴は背筋を伸ばし、正座のまま三味線を抱えていた。

「はい」

「撥は力入れすぎたらあかん」

「はい」

「音を出そうと思いすぎたら、音は逃げる」

琴は真剣な顔で頷いた。

「もう一度」

「はい」

三味線の音が響く。

まだ少し不安定な音だが、その一音一音には、琴の必死な気持ちが込められていた。

襖の外で、和子は静かに聞いていた。

「琴……」

思わず小さく呟く。

稽古場では、好江が厳しく声をかける。

「もう一回」

「はい!」

「長唄は、ただ覚えるだけやない」

「はい」

「言葉の中の気持ちを考えなあかん」

琴は三味線を置き、もう一度唄う。

最初は小さかった声。

けれど、少しずつ変わっていく。

和子は襖の外で微笑んだ。

その声には、琴らしい優しさがあった。


稽古が終わる頃。

琴は汗を拭きながら、深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

好江は三味線を片付けながら言った。

「琴」

「はい」

「あんた、毎日練習してたんやな」

琴は少し驚いた顔をする。

「……分かりましたか?」

「分かるわ」

好江は笑った。

「初めて持った人の手やない」

琴は少し照れたように俯いた。

「かこちゃんの隣にいたかったんです」

その言葉に。

好江は静かに琴を見る。

「芸はな、上手になりたいだけでは続かへん 誰かに届けたいと思う心があるから、続くんや」

琴は静かに頷いた。

「あんたの事、まだ子供やと思てたけど、もう、立派な花街の女やな 明日、かこちゃんと二人でお稽古しまひょ」

「はい!」


その夜。

琴は一人、もう一度三味線を手に取った。

まだ完璧な音ではない。

でも。

大切な人の隣で音を奏でられるように。

春の夜。

藤村には、二つの音が流れていた。

一つは、届けるための舞。

もう一つは、受け継ぐための音。







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