届ける舞
和子は、座敷の片隅で着物の手入れをしていた。
高瀬川での再会から一週間が過ぎようとしていた。
あの日、橋の上で見たカートの笑顔。
そして、五年前の雪の夜から続いていた記憶。
時が戻ったような、不思議な時間だった。
その余韻は、まだ和子の心の中に残っていた。
その時だった。
「かこちゃん、お電話どっせ」
好江の声が聞こえた。
「うちに……ですか?」
少し驚きながら、和子は立ち上がった。
自分に電話がかかってくることなど、初めてのことだった。
「そうや、山本って言うお人から」
急いで受話器を取る。
「もしもし……」
「和子さんですか」
聞き覚えのある声だった。
「山本さん…… 先日は、ありがとうございました」
「突然すみません」
山本は少し間を置いてから話した。
「実は……カートさんのことで、お伝えしたいことがありまして」
その名前を聞いた瞬間。
和子の表情が変わった。
「カートさんが……?」
「はい」
山本の声は穏やかだった。
「先ほど、カートさんからお電話がありまして、いよいよ、来月、カートさんが横須賀へ行くことになったそうです」
「そ、そうですか……」
和子は小さく呟いた。
電話を握る手に、少し力が入る。
「多分、横須賀から朝鮮に行かれるかも知れません」
「はい……」
返事をしながらも、胸の奥ではいくつもの思いが駆け巡っていた。
「和子さん」
山本の声が続いた。
「カートさんが、京都での時間を生涯忘れないとおっしゃっていました」
その言葉に、和子は静かに目を伏せた。
「わざわざ、ご連絡……ありがとうございます」
電話を終えた後。
和子はゆっくりと部屋へ戻った。
壁に掛かったカレンダーを見る。
来月。
指先で、その日付をなぞる。
横須賀へ行く日。
その日までに。
高瀬川の橋の上で交わした、あの約束を思い出しながら。
和子は静かにカレンダーを見つめていた。
その日の夕方。
和子は、稽古場の前でしばらく立ち止まっていた。
中から聞こえる三味線の音。
いつも聴いている音だったが、その日は少し違う音色に聞こえた。
ここで何度も舞を習った。
泣きながら稽古をした日もあった。
そして。
あの雪の夜。
初めてカートの前で舞った、祇園小唄。
和子は静かに襖を開けた。
「女将さん……」
稽古をしていた好江が振り返る。
「かこちゃん?」
珍しそうに首を傾げた。
和子は少し迷った後、ゆっくりと頭を下げた。
「お願いがあります」
「お願い?」
「もう一度……祇園小唄のお稽古させて下さい!おたのもうします!」
和子はおでこを畳に付けた。
その姿に。
好江は驚いた表情を浮かべた。
「祇園小唄を……?」
かたくなに、もう舞妓や芸妓にはならないと言っていた和子がなぜ改めて、舞を習いたいと言う理由が分からなかった。
「急に、どないしたん?」
好江は優しく尋ねた。
和子は黙った。
胸の中にある思いを、どう言葉にすればいいのか分からなかった。
けれど。
しばらくして、小さな声で言った。
「……お見せしたいお方がいるんです」
好江の表情が少し変わる。
「あの外人さんか?」
和子は静かに頷いた。
「来月、横須賀へ行くことになりました また……戦争が始まるかもしれません……」
「戦争……」
好江は何も言わず、和子を見つめた。
「その前に……」
和子は言葉を選びながら続けた。
「もう一度、京都の景色をお見せしたいんです」
「景色?」
「はい」
好江は黙っていた。
そして、ふっと優しい笑顔を見せた。
「かこちゃん」
「はい」
「あんたは昔から変わらへんな」
和子は少し驚いた顔をする。
「変わらへんって?」
「誰かのために、一生懸命になるとこやがな」
好江は立ち上がり、三味線を手に取った。
「前は、にわか仕上げやったけど、今度は厳しおっせ!その覚悟が出来るんやったら、お稽古しまひょ」
その言葉に。
和子は深く頭を下げた。
「はい その覚悟は出来てます」
静かな稽古場に。
久しぶりの三味線の音が響き始めた。
春の京都。
別れの季節が近づく中で。
和子は、もう一度だけ。
大切な人の心に残る舞を覚えようとしていた。
翌日。
夕暮れの置屋「藤村」。
稽古場には、柔らかな西日が差し込んでいた。
静かな部屋の中に、三味線の音が響く。
好江は三味線を弾きながら、和子の舞をじっと見ていた。
和子は久しぶりに袖を通した稽古着姿で、ゆっくりと扇を動かしている。
足の運び。
手の流れ。
5年前、何度も繰り返した動き。
体は覚えていた。
けれど。
「……違う!」
突然、好江の声が響いた。
和子の足が止まる。
「すみません……」
「謝らんでええ」
好江は三味線を置いた。
「かこちゃん」
「はい」
「あんたは、いろんなことを見てきた 大事な人を失う悲しみも それでも誰かを想う気持ちも」
好江は扇を指で示した。
「それを隠したらあかん 舞は綺麗に見せるだけやない その人が生きてきたもんが出るんや」
その言葉に。
和子はゆっくりと目を伏せた。
「あんたにしかでけへんもんを見せてみよし!」
「はい!」
「もっと、腰おろして! もう、一回!」
「はい!」
「目線が高い!どこ見てるんや!」
「はい!」
廊下の向こうで琴が稽古場から聞こえる二人の声に足を止めていた。
「今度の舞は……」
好江の声が聞こえる。
「見せるためだけの舞やない あんたの心を届ける舞や」
琴は黙って聞いていた。
和子は深く息を吸った。
好江が三味線を構える。
ゆっくりと一歩を踏み出す。
先ほどまでとは違う舞だった。
少し寂しさがある。
けれど。
温かさもあった。
まるで、高瀬川の春の水面のように。
琴は襖の外で、その舞の気配を感じていた。
昔の和子ではない。
だからこそ、美しいと。
稽古場には、再び三味線の音が流れ始めた。
春の京都。
別れの日が近づく中で。
一人の女性が。
大切な人へ届けるための舞を、少しずつ完成させていた。




