高瀬川の約束
喫茶店を出ると、春の陽射しが四人を包んだ。
高瀬川の水面には、柔らかな光が揺れている。
桜の花びらが風に舞い、川面へ静かに落ちていく。
千代子は、すっかり山本になついていた。
「なあ、おぜんざいのおっちゃん。あっちに行ってみよ」
小さな手を差し出す千代子に、山本は少し照れたように笑った。
「よし、じゃあ一緒に見に行こうか」
そう言って、山本は千代子の手を優しく握る。
二人は少し先を歩いていく。
その後ろを、和子とカートが並んで歩いていた。
川のせせらぎ。
春の匂い。
そして、少し前を歩く千代子の笑い声。
カートはしばらく黙って高瀬川を眺めていた。
やがて、ゆっくりと和子の方を見る。
「カズコサン……」
少し訛りのある、それでも綺麗な日本語だった。
和子は思わず顔を上げる。
「……はい」
カートは少し照れたように微笑んだ。
「キョウハ……アリガトウゴザイマス」
「……」
「マタ……アウコトガデキテ、トテモウレシイデス」
その言葉を聞いた瞬間、和子は少し驚いた。
日本語が上手だった。
もっと片言で、伝わるだけの言葉だと思っていた。
けれど、カートの言葉には、ちゃんと気持ちが込められていた。
「日本語……お上手ですね」
和子が言うと、カートは小さく笑った。
「スコシダケ……」
和子は微笑んだ。
「私も……今日は嬉しいです」
前を歩く二人を見る。
千代子は山本の手を握ったまま、何か楽しそうに話している。
カートもその姿を見て笑った。
春の高瀬川に、四人の足音が重なっていく。
小さな橋の上。
和子とカートは、並んで川面を見つめていた。
流れる水の音。
遠くから聞こえる町のざわめき。
やがてカートが、水面を見て和子に囁く。
「コノカワハノ、ナマエハナニデスカ?」
和子も川を見つめる。
そして、穏やかに答えた。
「高瀬川です」
カートは、その名前をゆっくり繰り返す。
「……タカセガワ」
大切な言葉を覚えるように。
その時だった。
少し先で、千代子と一緒に川を眺めていた山本へ、カートが声をかける。
「ヤマモトサン」
山本が振り返る。
「はい?」
カートは少し迷うような表情を見せた。
そして、ゆっくりと言葉を選ぶ。
"Could you translate it, please?"
(訳して下さい)
山本は小さく頷いた。
"Of course."
(もちろんです)
カートは、和子を見る。
その表情は、さっきまでの笑顔とは少し違っていた。
静かな決意のようなものがあった。
そして、英語で話し始める。
山本は、それを一つ一つ聞き取り、和子へ伝えた。
「カートさんが……」
少し間を置く。
「また、戦争が始まるかもしれない、と言っています」
和子の表情が変わった。
「……戦争?」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
もう二度と聞きたくなかった言葉。
あの長い苦しみの日々。
失ったもの。
戻らなかった人たち。
その記憶が、一瞬で蘇った。
山本は、静かに続ける。
「朝鮮のことかもしれません」
和子は川を見る。
春の光が揺れている。
こんなに穏やかな日なのに。
世界のどこかでは、また争いが始まろうとしている。
カートは続けて話した。
"Soon... I will be leaving for Yokosuka."
山本が訳す。
「もうすぐ……私は横須賀へ行きます」
和子は顔を上げた。
カートは、まっすぐ和子を見ていた。
"Before then..."
「それまでに……」
山本が言葉を続ける。
"I would like to see your dance once more."
「もう一度、あなたの舞いを見たい、と」
和子は黙った。
あの雪の夜。
異国から来た軍人が、自分の舞いを見つめていた。
そして今。
再び会えたと思ったら、また別れの時間が近づいている。
高瀬川の水音だけが、静かに流れていた。
カートは、微笑んで小さく頭を下げて、ふと上着のポケットへ手を伸ばしたが、一瞬、迷ったように手を止めた。
そして、ゆっくりと手を戻した。
和子は、その仕草に気づいた。
けれど、何も聞かなかった。
高瀬川の水は、春の光を受けながら静かに流れていた。
しばらくして。
山本が腕時計を見る。
そして、カートへ英語で声をかけた。
"It’s almost time for your appointment."
(そろそろお約束の時間です)
カートは一瞬、川を見つめた。
そして、小さく頷いた。
"Yes……."
名残惜しそうな表情だった。
山本は和子の方を見る。
「残念ですが、この後、お世話になった方と約束があるんです」
和子は頷く。
「そうですか……」
短い言葉だった。
けれど、その声には少し寂しさが混じっていた。
その時。
山本が何か思いついたように顔を上げる。
「あの……」
三人を見る。
「写真、撮りませんか?」
「写真?」
和子が聞き返す。
山本は笑った。
「せっかくですから」
そう言って、鞄の中からカメラを取り出す。
そして、近くを歩いていた通行人に声をかけた。
「すみません。写真をお願いできますか」
通行人は笑顔で頷いた。
小さな橋の上。
四人は並んで立つ。
千代子は山本の隣。
その横に和子。
そして、カート。
春の高瀬川を背景に。
桜の花びらが風に舞う。
カメラを構えた人が声をかける。
「はい、撮りますよ」
シャッターの音が響く。
また、一枚の写真が残った。
春の高瀬川。
四人の時間。
そして、再び巡り会えた二人の記憶として。




