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雪の記憶、春の再会

その日の朝。

和子は、好江から借りた訪問着に袖を通していた。

淡い色合いの着物。

派手ではない。

けれど、春の光によく似合う、柔らかな色だった。

鏡の前に座る。

久しぶりに整える髪。

そして、薄っすらとした化粧。

昔のような舞妓の華やかな化粧ではない。

今の自分に似合う、静かな化粧。

和子は鏡の中の自分を見つめた。

そこにいるのは、五年前の舞妓ではなかった。

千代子の母親。

けれど。

その瞳の奥には、あの雪の夜の記憶が残っていた。


日曜日の昼下がり。

四条木屋町には、春の柔らかな風が流れていた。

高瀬川沿いを歩く人々。

店先から聞こえる笑い声。

暖かな日差し。

和子は千代子の小さな手を握りながら、静かに立っていた。

と、甘味処で山本から聞いた話が、和子の胸によみがえった。

カートは、アメリカのオクラホマの生まれだった。

少年の頃は、父親と一緒に広い小麦畑で働いていたという。

地元の大学を卒業した後、陸軍に入隊。

そして、故郷で出会った幼馴染と結婚し、幸せな家庭を築いた。

その後、妻とともにハワイへ赴任。

妻は基地でタイピストとして働いていた。

そして――。

あの日。

真珠湾。

朝早く、上司から呼び出された妻は基地へ向かった。

カートは、その背中を見送った。

まさか、それが最後になるとは知らずに。

その直後。

空を震わせる大きな爆発音。

カートは、何が起きたのか分からないまま基地へ向かった。

そこで見たものは、その日の朝まで笑っていた妻の姿ではなかった。


和子は足元に流れる高瀬川を見つめていた。

その時。

「和子さん」

聞き覚えのある声がした。

振り返る。

そこには、山本が立っていた。

「……」

和子は思わず頭を下げる。

山本は笑った。

「お待たせしました」

「いえ……」

「少しバスが遅れてしまいまして」

そう言った山本の後ろから。

一人の男がゆっくり歩いて来た。

背広姿。

柔らかい表情。

金色の髪が、微かに風に揺らいでいる。

和子の息が止まる。

カート・ハワード。

あの日、雪の中で手を差し伸べてくれた人。

カートも和子を見つめていた。

そして。

ゆっくり微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間。

和子の胸の奥に、あの夜の記憶が蘇る。

白い雪。

冷たい風。

そして、差し出された大きな手。

「……」

言葉が出なかった。

ただ、静かに見つめ合った。

すると。

山本が、ふっと空気を和らげるように千代子を見る。

「千代ちゃん、今日は何を食べたい?」

千代子は少し考えて、顔を上げる。

「……アイスクリーム」

その一言に。

山本が笑った。

カートも、千代子を見て微笑んだ。

「アイスクリーム食べたい」

その無邪気な声に。

和子も、思わず笑った。


喫茶店の窓際の席。

四人は、並んで座っていた。

窓の外には、春の四条木屋町の景色が広がっている。

柔らかな日差し。

ゆっくり流れる川面。

暖かな日差しの中で笑い合う若者たち。

店の中には、珈琲の香りが静かに漂っていた。

和子は、窓の外を眺めながら、まだ少し夢の中にいるような気持ちだった。

まさか。

五年前の雪の夜に出会った人と、こうして同じ席に座る日が来るなんて。

向かいに座るカートは、静かに珈琲を飲んでいた。

あの時と変わらない優しい目。

彼の過去を知ってしまった今、和子には分かる悲しみがあった。

自分もまた、失ったものを抱えて生きてきたから。

"Mr. Howard."

(ハワードさん)

山本が口を開いた。

"How does it feel to be back in Kyoto after such a long time?"

(久しぶりの京都はいかがですか)

カートは窓の外を見る。

"……It feels very nostalgic.

This is the city where I found a memory I will carry with me for the rest of my life."

(……とても懐かしです ここは、私が生涯忘れない記憶を見つけた街ですから)

少し間を置いて、和子を見る。

"Especially that snowy Christmas night... I could never forget it."

(特に、あの雪のクリスマスの夜……私は決して忘れることができません)

カートの言葉を聞いた山本は、静かに和子を見る。

そして、ゆっくりと口を開いた。

「カートさんは……」

少し間を置いて。

「五年前の、あの雪の夜のことを、今でも忘れられないそうです」

その言葉に。

和子は窓の外へ目を向けた。

高瀬川の流れ。

春の光。

けれど、和子の心に浮かんだのは、あの日の白い雪だった。

「……」

しばらく黙っていた和子が、静かに言った。

「私も……」

小さな声だった。

「私も、あの日のことは忘れたことはありません」

山本は、その言葉を英語に訳した。

"She says... she has never forgotten that day either."

カートの表情が変わった。

驚き。

そして、静かな喜び。

「……」

彼は何かを言おうとした。

けれど、すぐには言葉が出なかった。

五年前。

雪の中で出会った少女のような舞妓。

今、目の前にいるのは、母となった一人の女性。

それでも。

あの夜の記憶は、二人の中で同じ場所に残っていた。

カートは、ゆっくりとうなずいた。

"Thank you..."

小さく呟く。

山本が訳す。

「ありがとう……だそうです」

和子は微笑んだ。

「こちらこそ……」

その声は、春の午後の静かな喫茶店の中に消えていった。


しばらくして。

カートの視線が、隣の席へ向いた。

そこには。

夢中になってアイスクリームを食べている千代子がいた。

小さな手でスプーンを握り、一口食べるたびに嬉しそうな表情を浮かべている。

その姿を見て。

カートは、自然に微笑んだ。

そして、和子を見る。

少し迷うように。

けれど、優しい声で尋ねた。

"Is that your child?"

(この子は、あなたのお子さんですか?)

山本が、和子へ伝える。

和子は、ゆっくり頷いた。

「はい、千代子と言います」

山本が英語に訳した。

"Her name is Chiyoko."

その名前を聞いた瞬間。

カートは、もう一度、少女を見た。

小さな笑顔。

無邪気な瞳。

そして。

静かに名前を口にする。

「……Chiyoko」

まるで、大切なものを確かめるように。

その声には、不思議な温かさがあった。

和子は、その様子を見つめていた。

五年前。

雪の中で出会った一人の外国人。

今。

その人が、自分の娘の名前を呼んでいる。

不思議な時間だった。

千代子は、そんな大人たちの気持ちも知らず。

「お母ちゃん、これ美味しい」

と、嬉しそうに笑った。

その声に。

カートも微笑む。

和子は、その姿を見ながら、胸の奥にあるものを感じていた。

山本から聞いた。

カートの過去。

愛する妻を失ったこと。

戦争が奪っていったもの。

けれど。

自分は何も伝えていない。

このままでは、同じ悲しみを抱えている彼と、本当の意味で心を通わせることはできない気がした。

和子は、静かに口を開いた。

「カートさん……」

山本を見る。

山本は頷いた。

和子は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「この子の父親は……」

少し間を置いて。

「戦争で亡くなりました」

山本が英語に訳す。

"Her father... was killed in the war."

その瞬間。

カートの表情が変わった。

驚き。

そして、深い悲しみ。

視線が、千代子へ向かう。

さっきまで美味しそうにアイスクリームを食べていた小さな少女。

その子もまた、戦争によって父親を失った子供だった。

カートは、しばらく言葉を失った。

「……」

そして、静かに和子を見る。

そこにあったのは、同情ではなかった。

同じ痛みを知る者だけが分かる、静かな理解だった。

山本が、カートの表情を見て言う。

"She also lost someone very dear to her in the war, just as you did."

(彼女も、あなたと同じように、大切な人を戦争で失ったんです)

カートはゆっくり頷いた。

そして、小さな声で呟いた。

"I understand..."

(分かります……)

その声には、五年前の雪の夜と同じ優しさがあった。

和子は、静かに目を伏せた。

二人は初めて。

過去ではなく。

今を生きる自分たちとして向き合っていた。





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