あの日を知る人
その朝、置屋「松野」では、琴が忙しく動いていた。
「琴はん、今日は室町まで行ってきておくれやす」
好江がそう言うと、琴は振り返った。
「室町どすか?」
「へぇ。春の着物を見に行ったらどないえ もう あんたも、そろそろ季節ごとの衣装を考えなあきまへんからな」
琴は少し照れたように笑った。
「まだまだ、うちは勉強中どす」
その様子を見ていた和子は、微笑んだ。
あの雪の夜。
まだ小さな少女だった琴が、今では立派な舞妓になっている。
時間は、確かに流れていた。
その日は、和子も一緒に行くことになった。
「かこちゃん、琴を頼みます」
好江に言われ、和子は頷いた。
「へぇ」
表に出る仕事ではない。
けれど、琴にとって和子は、いつもそばにいてくれる大切な人だった。
室町の呉服店。
店先には、春らしい色の反物が並んでいた。
淡い桜色。
若草色。
柔らかな春の光のような布。
琴は目を輝かせながら、一枚一枚を見ていた。
「綺麗どすなぁ」
「琴はんには、よう似合いますやろ」
店の主人が笑う。
琴は鏡の前で反物を合わせながら、少し恥ずかしそうにしていた。
その姿を見ながら、和子は思った。
大きゅーなったなぁ。
ほんまに……。
帰り道。
琴と和子は、ゆっくり歩いていた。
「かこちゃん?」
「何?」
「うち、もっと、上手になりたいんどす」
琴は前を見ながら言った。
「舞も、お座敷でのお話も……まだまだどすさかい」
和子は優しく笑った。
「琴はんは、もう十分立派どす」
「でも……」
「焦らんでもええんやないですか」
和子はそう言った。
「ゆっくりでええんです」
琴は和子を見る。
「かこちゃん みたいどすな」
「え?」
「かこちゃんは、いつも、焦らんと 落ち着いたはるもん」
和子は少し困ったように笑った。
「うちは、そんなんやありません」
そう言いながら。
その顔は少し嬉しそうだった。
二人が話している間。
小さな影が、少しずつ離れていった。
千代子だった。
道端に並ぶ店。
行き交う人々。
四歳の千代子には、すべてが楽しかった。
そして――。
「お嬢ちゃん」
声をかけたのは、一人の男だった。
背広姿。
穏やかな表情。
「飴、好きかい?」
千代子は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「おおきに」
男は笑って、飴を渡した。
しばらくして。
「……千代子?」
和子が振り返った。
そこにいるはずの小さな姿がない。
琴も辺りを見る。
「千代ちゃん?」
二人の表情が変わった。
「千代子!」
和子の声が響く。
人の間を探す。
店先を見る。
路地を見る。
その時だった。
「お母ちゃん!」
小さな声が聞こえた。
振り返ると、千代子が走ってくる。
「千代子!」
和子は駆け寄った。
「どこ行ってたん!」
思わず強い声になる。
「心配したやろ!」
千代子は目に涙を浮かべる。
「ごめんなさい……」
そして、小さな手を見せた。
「おっちゃんに、飴もろた」
和子はため息をついた。
「もう勝手に行ったらあかんよ」
「うん……」
和子は顔を上げた。
少し離れた場所に、一人の男が立っていた。
和子はお礼を言おうと近づく。
「この子が 飴もろたそうで、ありがとうございました」
男は笑顔で頭を下げた。
それは、和子には見覚えのある顔だった。
忘れることのできない夜。
雪の降る南禅寺。
外国の軍人の横に立っていた人。
「あ……」
和子の中で、遠い記憶が蘇る。
「あなたは……」
和子の声が、かすかに震えた。
男は少し驚いたように、和子を見る。
「……はい?」
「失礼ですが……」
和子は言葉を探した。
「以前……お会いしたことがありませんか」
男は少し黙った。
そして、和子の顔をじっと見る。
「……」
「クリスマスの夜……」
その言葉を聞いた瞬間。
男の表情が変わった。
「まさか……」
和子の胸が大きく揺れた。
「あなたは……あの時の通訳さん……」
男はゆっくり頭を下げた。
「はい あの時の山本です」
その名前を聞いて、和子の中で記憶がつながった。
「山本さん……」
「では、あなたは?」
「和子です」
「和子さん……」
山本は、少し離れら所に立っている琴に目を移した。
和子も琴を見て。
「あれは、あの時の琴さんです」
「そうなんだ」
山本は琴に頭を下げた。
琴も不思議そうに頭を下げる。
そして、山本は、和子の足元で二人を見上げている千代子を見た。
「この子は、あなたの?」
和子は千代子の手を握った。
「はい…… 娘です 千代子と言います」
千代子は不思議そうに山本を見て、飴が入った、ほっぺたを大きく膨らませている。
「おっちゃん、飴、美味しい」
その言葉に、頭を掻いて山本は笑った。
和子は頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「いえ」
山本は首を振った。
「小さな子供が一人で歩いていたので、心配になっただけです」
山本は、千代子を見つめながら、静かに笑った。
「……あの時から、もう五年になるんですね」
その時。
琴が二人のところへやって来て千代子を見て。
「千代ちゃん! 心配したで!」
と、和子が山本を見て。
「こちら、山本さん」
まだ、誰かわかっていない琴は小さく頭を下げる。
「ほら、あのクリスマスの日の通訳さん」
思い出した琴は、思わず深く頭を下げた。
山本は微笑んで。
「お綺麗になられましたね」
それを聞いた琴は少し頬を赤くする。
「そんな……まだまだどす」
「いや、本当に」
山本は懐かしそうに笑った。
雪の夜に見た小さな少女。
その姿は、もうどこにもなかった。
その時。
千代子が、じっと店の前を見ていた。
甘い香り。
暖簾の向こうから聞こえる人の声。
「千代子?」
和子が気づく。
「何見てるん?」
千代子は小さな声で言った。
「……おぜんざい」
和子は思わずため息をつく。
「もう…… さっき飴もろたばっかりやろ」
千代子は少し口を尖らせる。
その様子を見て、山本が笑った。
「食べたいの?」
千代子は和子の顔を見る。
少し迷ってから。
小さく頷いた。
「おぜんざい食べたい」
「千代子……」
和子は困った顔をする。
「すんまへん」
「いえ」
山本は笑った。
「もしお時間がおありでしたら…… 少し、ご一緒しませんか」
和子はすぐに首を振った。
「いえ、そんな……」
すると琴が口を開いた。
「かこちゃん、ちょっとぐらい、ええやないですか」
和子を見る。
「うちが着物に見とれて、時間がかかったことにしたらええんどす」
「琴はん……」
琴は笑った。
「千代ちゃん、あんなに食べたそうにしてます」
和子は千代子を見る。
小さな手を握りながら。
嬉しそうに店の方を見ている。
その顔を見て。
和子は、静かに息を吐いた。




