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春を待つ人

昭和二十五年、春。

京都の町に、暖かな風が戻っていた。

長い冬を越えた高瀬川沿いには、桜の蕾が膨らみ始めている。

人々の暮らしも、少しずつ変わり始めていた。

戦争が終わってから数年。

まだ、心の中の傷跡は残っている。

けれど。

京都の花街には、少しずつ昔の華やかさが戻り始めていた。


置屋「松野」。

朝の支度で、女たちは忙しく動いている。

その中を、一人の若い女性が歩いていた。

琴だった。

あの雪の夜。

まだ幼さの残る少女だった琴は、今では立派な舞妓になっていた。

白い化粧。

鮮やかな着物。

そして、何よりも人の心を引きつける舞。

琴の舞は、花街の中でも評判になっていた。

「琴ちゃんの舞は、本当に綺麗やなぁ」

そう言われるほどだった。

ただ形を真似るだけではない。

その舞には、戦争を越えてきた人間だけが持つ、静かな強さがあった。

好江も、琴の成長を嬉しそうに見ていた。

「琴はんは、もう一人前どすな」

琴は少し照れながら笑う。

「まだまだどす」

その様子を、少し離れた場所から見ている女性がいた。

和子だった。

和子は変わらず、置屋の仕事をしていた。

掃除。

洗濯。

食事の支度。

表に出る仕事ではない。

けれど。

この家を支える大切な仕事だった。

好江は何度も言っていた。

「かこちゃん」

「へぇ」

「琴も立派になりました」

「ほんまによかったです」

そして、少し間を置いて。

「かこちゃんも……舞妓や芸妓になったらええのに」

和子は困ったように笑った。

「うちは……」

「もう何度も言いましたやろ」

好江は優しく言う。

「かこちゃんやったら、愛嬌もあるし、きっと人気が出ます」

でも。

和子は静かに首を振った。

「できません」

その声には、迷いがなかった。

「夫のことを忘れて、知らんお人の前で笑うことなんて……うちにはできません」

好江は何も言わなかった。

和子の中には、今もあの日の人がいる。

山の中の小さな村。

畑仕事の帰り道。

不器用だけれど優しい笑顔。

和子にとって、健吉は過去ではなかった。

今も心の中で生きている人だった。

その時。

「お母ちゃん!」

元気な声が響いた。

振り返ると、小さな女の子が走ってくる。

千代子だった。

四歳になった千代子は、置屋の中を自分の庭のように走り回っていた。

「こら!千代子!」

和子が声をかける。

「また走ったらあかん言うたやろ」

千代子は足を止める。

「そやかて……」

「そやかてやないの その廊下 さっき 拭いたとこやのに もう!」

怒っているように見える。

でも。

その顔は、優しかった。

千代子は少し口を尖らせる。

「ごめんなさい」

和子はため息をつく。

「ほんまに、誰に似たんやろなぁ」

そう言いながら。

その表情は、少し笑っていた。

千代子が生まれてから。

和子の人生には、守るものができた。

健吉との約束。

そして、この小さな命。

それが、和子を支えていた。

春の風が、開いた窓から入ってくる。

そんな和子の人生を見守ってきたこの街で、もう一度、運命が動き始めようとしていた。





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