高瀬川の記憶
夜の高瀬川。
昼間の賑わいは消え、川沿いの道には柔らかな灯りだけが残っていた。
水面には、町の明かりが揺れている。
美砂子は一人、スマートフォンを見つめで川辺に立っていた。
少し冷たい風が頬を撫でる。
スマートフォンの画面。
そこに写っているのは、若い舞妓姿の女性。
無表情に近い顔。
その隣で、穏やかに笑う外国の軍人。
そして、写真の裏に書かれていた短い言葉を思い出していた。
何度見ても、不思議だった。
なぜ、この二人は出会ったのか。
なぜ、自分は何かに導かれるように京都へ来たのか。
美砂子は静かに目を閉じた。
琴の声が、まだ耳に残っている。
「かこちゃんは……強い人やった……誰よりも人の痛みが分かる人やった」
琴は、昔の記憶を一つ一つ語ってくれた。
でも。 最後の部分だけは、まだ空白だった。
和子は、その後どうなったのか。
なぜ、理事長が千代子の戸籍謄本を持っていたのか。
スマートフォンを握りしめた美砂子は連絡先を探す。
「中村久美」 画面に表示された名前を見る。
つくし学園の施設長。
そして、自分に過去への扉を開いてくれた人。
美砂子は少し迷った後、電話をかけた。
数回の呼び出し音。
「もしもし」 聞き慣れた声がした。
「久美先生……美砂子です」
「美砂子ちゃん? どうしたの?」
夜の電話に、少し驚いた様子だった。
美砂子は川を見る。
七色に輝く水面。
「実は、今、戸籍謄本に書いてあった、京都にいるんです」
「そ、そうなの……」
「はい」
美砂子はゆっくり言葉を選んだ。
「あの戸籍謄本のこと……少し分かった気がします」
電話の向こうで、静かな沈黙が流れる。
「わかったて?」
美砂子は静かに答えた。
「載っている人たちが誰なのかは、わかったんですが…… でも、この人たが、理事長と私にどんな関係があったと言うことは、まだ、わからないです」
「でも、そんな昔のこと良くわかったわね さすが 映画監督」
「いえ…… また わかったら ご連絡します」
電話が終わって、美砂子は高瀬川の流れを見る。
何十年も前。
この場所で、再会と別れがあった。
届かなかった想いがあった。
でも。
その記憶は消えていなかった。
誰かが覚えていた。
そして今。 その続きを探している。
風が吹いた。
川面の灯りが揺れる。
美砂子は小さく呟いた。
「和子さん……」 高瀬川の水音だけが静かに響いていた。
朝の木屋町。
夜の灯りは消え、町はゆっくりと目を覚ましていた。
店先では、開店の準備をする人の姿がある。
通勤、通学の人達。
昨日までと変わらない京都の朝。
けれど。
美砂子には、少し違って見えた。
昨日。
琴が語った和子の人生。
写真に残された、雪の夜の記憶。
すべてが、まだ胸の中に残っていた。
美砂子はゆっくり歩いていた。
待ち合わせ場所は、高瀬川に架かる小さな橋。
橋の向こうに、ひとりの女性が立っていた。
里香だった。
朝の光の中。
川を眺めながら、静かに立っている。
美砂子は少し足を止めた。
その姿が、不思議だった。
昨日までの里香とは違う。
祖母から受け取った記憶を、大切に抱えているように見えた。
「里香さん」
声をかける。
里香が振り返る。
「あ、美砂子さん、おはようございます」
笑顔になる。
二人は小さく頭を下げた。
橋の上。
下には、静かに高瀬川が流れている。
里香が川を見る。
「この橋なんです」
「そうなんですね」
美砂子は、自分が立っている小さな橋をしみじみと見つめた。
何十年も前。
この京都で。
雪の夜。
一人の女性と、一人の外国人が出会った。
そして。
この橋の上で物語があった。
その記憶を追っている自分がいる。
美砂子は小さく息を吐いた。
「里香さん」
「はい」
「ありがとうございます」
突然の言葉に、里香が少し驚く。
「私、最初はただ……あの写真のことを知りたかっただけだったんです」
美砂子は川を見る。
「でも、琴さんのお話を聞いて分かりました これは、写真の謎を解く話じゃないんだって」
里香は静かに聞いている。
「そこに生きていた人たちの時間を、知ることなんだって」
朝の風が吹く。
高瀬川の水面が揺れる。
里香は優しく微笑んだ。
「祖母も、きっと喜んでます」
「え?」
「誰かが、ちゃんと伝えてくるって」
その言葉に。
美砂子は少し目を伏せた。
そして。
二人は並んで橋を渡った。
向かう先は、木屋町の小さなイタリアンレストラン。
そこには。
あの写真を見つけた人が待っている。
店の前には、まだ昼の賑わいはない。
けれど、古い町並みの中に、少しずつ一日の気配が戻っていた。
「おはようございます」
そう言って扉を開ける。
美砂子は店の中を見る。
あの写真が飾られていた場所。
壁には、今も変わらず、その一枚があった。
その写真を見つめていると。
奥から声がした。
「里香ちゃん?」
奥から出て来た陽一は二人を見る。
「おはようございます」
美砂子が頭を下げた。
「おはようございます また、二人揃ってどうしたの?」
里香が笑う。
「実は、陽一さんに聞いてほしいことがあって」
「聞いてほしいこと?」
その時。
奥から工事の音が聞こえた。
「ごめん。朝からトイレの改修工事が入って」
陽一が苦笑する。
里香は少し緊張した表情になる。
そして、壁の写真を見る。
「陽一さん」
「ん?」
「この写真のこと……分かりました」
その瞬間。
陽一の表情が変わった。
「……え?」
「分かったって……どういうこと?」
里香はゆっくり話す。
「実は……」
一度、美砂子を見る。
美砂子が小さく頷く。
「私の祖母が、あの二人のことを知っていました」
陽一は言葉を失う。
「そ、そう……」
「はい」
里香は写真を見る。
「実は、祖母は若い頃、先斗町の舞妓さんだったんです」
「そうだったたんだ じぁあの舞妓さんは 先斗町の?」
「はい…… 祖母も、あの写真が撮られた時、そこにいたようなんです」
店の中に静かな時間が流れる。
陽一は、何年もただの古い写真だと思っていた写真を見る。
美砂子が静かに続けた。
「昨日、里香さんのおばあ様からお聞きました」
そして。
写真の裏に書かれていた言葉を思い出す。
雪の夜。
遠ざかる車。
一人の軍人が残した言葉。
「それから……」
美砂子は写真を見る。
「写真の裏に書かれていた、あの言葉の意味も分かりました」
陽一は驚いたように美砂子を見る。
「言葉の意味?」
美砂子は静かに頷く。
窓の外。
高瀬川の水音が、かすかに聞こえていた。
店を出ると。
朝の木屋町には、少しずつ人の声が戻っていた。
二人は、来た道をゆっくり戻る。
高瀬川に架かる、小さな橋。
朝の光が、川面に揺れている。
美砂子は足を止めた。
「不思議ですね」
「そうですね だから、私、いったじゃないですか この街は、不思議な事が起こるんです」
里香は少し笑う。
美砂子は静かに頷いて、しばらく黙っていた。
やがて。
小さな声で言った。
「里香さん」
「はい」
「私……」
少し迷う。
言葉を探すように。
「この話、書いてみようと思うの」
里香が美砂子を見る。
「書くって……?」
美砂子は頷く。
「最初は、戸籍謄本とあの写真のことが気になっただけでした 戸籍謄本に載っている人達は誰なのか あの写真は誰が写っているのかとかね」
美砂子は川を見る。
「でも……違ったんです これは、そんな興味本位で探す話じゃないって そこにいた人たちの大切な時間の話なんだと思いました」
風が吹く。
高瀬川の水面が静かに揺れる。
里香は微笑んだ。
「祖母の話も……書いてくれるんですか?」
美砂子は頷く。
「はい」
「琴さんが覚えていたこと 和子さんが生きた時間 そして……」
少し間を置く。
「写真に写っていた、もう一人の人のことも 戦争の中で出会った二人が その後、どんな人生を歩いたのか ちゃんと残したいと思いました」
里香はしばらく黙っていた。
美砂子も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、静かに高瀬川を見つめた。
朝の京都。
流れる水は、何十年経っても変わらない。
忘れられた記憶を運びながら。
今日も静かに流れていた。
夜のホテル。
部屋の明かりは、少し落としていた。
窓の外には、京都の街の灯りが静かに広がっている。
美砂子は窓辺に立っていた。
手にはスマートフォン。
画面には、長年支えてくれているプロデューサーの名前。
少しだけ迷う。
これまで何度も相談してきた。
新しい作品のこと。
脚本のこと。
撮影のこと。
でも。
今夜話すことは、それとは少し違う気がしていた。
美砂子は電話をかけた。
数回の呼び出し音。
「もしもし」
聞き慣れた声。
「監督?」
「はい」
「どうしたんですか? こんな時間に」
美砂子は窓の外を見る。
「京都で……」
ゆっくり話し始める。
「ある写真を見つけました」
「写真?」
「はい」
美砂子は、その写真を思い出す。
雪の夜。
無表情な舞妓。
優しく笑う外国の軍人。
「その写真には、戦争の後を生きた二人が写っていました」
電話の向こうは静かだった。
「私は最初……」
美砂子は続ける。
「ただ、映画の題材になるかもしれないと思っていました」
「でも……」
少し声が揺れる。
「違いました これは、映画にはしてはいけない物語なんだって」
しばらく沈黙が流れる。
そして。
プロデューサーの声がした。
静かで、優しい声。
「監督」
「はい」
「それは……」
少し間を置いて。
「だったら これは作品にする物語のではなく、監督自身の物語だと思います」
美砂子は言葉を失った。
窓の外を見る。
自分でも、まだはっきり分かっていなかった。
なぜ、この写真に惹かれたのか。
なぜ、和子の人生を知りたいと思ったのか。
その答えを。
彼は見つけてくれた。
「次回作の事は帰ってから、ゆっくりと考えるとして 今、監督がするべき事は、この物語を最後まで見届けることだと思います」
美砂子は黙って聞いている。
「監督が見つけた物語なんだから」
その言葉が、静かな部屋に残った。
美砂子は目を閉じる。
京北の畑。
先斗町。
雪の南禅寺。
そして、高瀬川。
和子。
健吉。
琴。
そして、カート。
そして、まだ知らない千代子の人生。
すべてが一本の糸でつながっているように感じた。
「ありがとうございます」
美砂子が言う。
「でも、私……書いてみようと思います 時間がかかっても」
「分かってる」
プロデューサーは答えた。
「美砂ちゃんは、そういう物語を見つけた時は最後まで行く人だからね」
「ありがとう」
電話が終わる。
美砂子はスマートフォンを下ろした。
窓の外。
遠い昔の誰かの声が、まだ残っているような気がした。
美砂子は机へ向かう。
ノートパソコンを開く。
そして。
ゆっくりとキーボードに指を乗せた。




