プリンセスと雪の夜
長い廊下。
好江を先頭に、琴と和子が後に続いた。
古い木の床を、三人の足音だけが静かに響いていた。
廊下の向こう。
まだ大広間から音が聞こえている。
明るい異国の音楽。
人々の笑い声。
グラスの触れ合う音。
先ほどまで、琴と和子が立っていた場所。
けれど、もうそこへ戻ることはない。
琴は一度だけ、後ろを振り返った。
襖の向こうから漏れる明かり。
和子は、何も言わず、隣を歩いていた。
三人はゆっくり玄関へ向かった。
玄関に着くと、番頭がすぐに気づいた。
「お疲れ様でございました」
そう言って、丁寧に履き物を用意する。
番頭は琴と和子を見る。
「進駐軍はんも、たいそう喜んでおられました」
琴は少し戸惑ったように頭を下げた。
「おおきにさんどす」
小さな声だった。
和子も静かに頭を下げる。
番頭は優しく微笑んだ。
「寒うございますから、お気をつけてお帰りくださいませ」
好江が頷く。
「おおきに」
三人は履き物を履いた。
玄関の戸が開く。
冷たい空気が流れ込んできた。
三人が外へ出る。
すると。
雪は、もう止んでいた。
空には雲が残っている。
けれど、先ほどまで降っていた雪が、町を白く染めていた。
石畳。
屋根。
植木。
すべてが静かに雪をまとっている。
音のない夜だった。
琴は足元を見る。
自分たちの歩いた跡が、白い雪の上に残る。
和子も外の景色を見つめていた。
好江が二人を見る。
「……綺麗どすな」
その言葉に。
琴は小さく頷いた。
和子も、静かに息を吐いた。
遠くからは、まだ料亭の中の笑い声がかすかに聞こえていた。
けれど。
三人のいる雪の道には、静かな時間だけが流れていた。
そして。
三人は並んで歩き出した。
しばらく歩くと。
料亭の門が見えてきた。
その前に、一台の車が停まっていた。
役所の車だった。
その横には、二人の男が立っている。
カートと山本だった。
琴と和子は、少し驚いたように足を止めた。
山本が微笑む。
「お帰りになるところでしたので、お見送りに」
好江が軽く頭を下げる。
「ご丁寧に、おおきに」
和子は、カートを見る。
そして。
静かにお辞儀をした。
カートも深く頭を下げ返した。
運転手が車の扉を開ける。
好江が先に乗り込む。
続いて琴。
最後に和子が乗ろうとした。
その時。
足元の雪が、少し崩れた。
「あっ……」
着慣れない着物。
慣れない履物。
雪で滑った足を支えきれず。
和子の身体が傾いた。
次の瞬間。
雪の上に、静かに膝をついた。
「大丈夫ですか」
山本が声をかける。
けれど、その前に。
カートが一歩前へ出ていた。
そして。
和子へ手を差し伸べる。
和子は、その手を見た。
その瞬間。
和子の脳裏に、別の景色が浮かんだ。
故郷の畑。
土の匂い。
足を滑らせ、転んでしまった時。
「大丈夫か」
そう言って、手を差し伸べてくれた健吉の笑顔。
優しく笑う顔。
何も疑わず、ただ自分を助けようとする手。
和子は、目の前のカートの手を見つめた。
そこにある優しさだけは、どこか似ていた。
カートは何も言わず、ただ微笑んでいた。
そして。
“Come on.”(さあ)
小さく呟いた。
和子は戸惑った。
けれど。
このままでは立ち上がれない。
和子は、ゆっくり手を伸ばした。
カートの手を握る。
温かかった。
カートは優しく力を入れた。
和子は立ち上がる。
そして、慌てて手を離した。
「お、おおきに……」
小さな声。
カートは笑った。
“No problem.”(大丈夫です)
その時、カートは、和子の瞳の奥にあるものを感じていた。
戦争で傷つきながらも、決して折れなかった強さ。
静かな佇まいの中にある、逞しさ。
そして、自分の足で立って生きようとする芯の強さ。
カートには、それが美しく見えた。
カートは何も言わず、ただ微笑んでいた。
そして。
和子が車に乗り込む。
扉が閉まる。
エンジンの音が響く。
車はゆっくり動き出した。
雪の積もった石畳を進んでいく。
和子は窓の外を見る。
料亭の門。
立っているカートの姿。
少しずつ遠ざかっていく。
和子は、黙ってその姿を見つめていた。
本当なら。
憎むべき相手なのかもしれない。
戦争に勝った国の軍人。
自分たちから大切なものを奪った側の人間。
けれど。
今、そこに立っているカートの姿を見て。
和子は不思議な感覚を覚えた。
勝った者の誇らしさではなかった。
そこには、どこか寂しさがあった。
多くのものを失った人のような。
戦争が終わっても、心の中に残るものを抱えているような。
和子は静かに目を伏せた。
敵でも味方でもない。
ただ、戦争で傷ついた一人の人間なのだと思った。
カートは車が見えなくなるまで見送っていた。
雪の夜。
静かな京都の町。
その中で。
小さく呟く。
“Merry Christmas…”(メリークリスマス)
一度、息を吐く。
そして、もう一度。
“Merry Christmas…”(メリークリスマス)
遠ざかる車へ向かって。
優しく微笑む。
“Princess…”(お姫様)
その夜、カートが見た和子は、笑わない女性だった。
けれど、雪の中で静かに立つ姿は、彼にはどこか特別に見えた。
白い雪の中。
その言葉だけが、静かに残った。




