雪の夜の記憶
祇園小唄の最後の音が、静かに消えた。
古い蓄音機の針が、かすかな雑音を残して止まる。
琴と和子は、最後の所作の姿勢のまま動かなかった。
指先。
視線。
揺れる帯と袖。
二人の間に流れる静かな時間。
やがて。
ゆっくりと顔を上げる。
その瞬間。
大広間に、大きな拍手が響いた。
一人。
また一人。
立ち上がる人が増えていく。
そして。
気がつけば、会場全体が立ち上がっていた。
軍服姿の男たちも。
その家族たちも。
皆、笑顔で拍手を送っている。
琴は、目を見開いた。
何が起きているのか、すぐには理解できなかった。
怖いと思っていた人たち。
言葉の通じない人たち。
その人たちが、今、自分たちの舞を喜んでくれている。
琴の胸の奥が熱くなった。
隣を見る。
和子も、驚いたような表情をしていた。
二人は顔を見合わせた。
言葉は出なかった。
ただ。
小さく頷いた。
やりきった。
そう伝えるように。
もう一度、二人は深く頭を下げた。
拍手はしばらく続いていた。
やがて。
二人は静かに襖の向こうへ戻った。
控室。
襖が閉まる。
その瞬間。
外の音が少し遠くなった。
琴はその場に座る。
和子も隣に座った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
まだ、夢の中にいるようだった。
琴が小さな声で呟く。
「……終わったんやな」
和子は返事をしなかった。
ただ、静かに頷いた。
襖が開き、好江が入ってくる。
二人の顔を見る。
そして、優しく微笑んだ。
「……ようやったな 良かったえ」
琴が顔を上げる。
好江は続けた。
「さぁ、とっとと、帰りまひょか」
その一言で。
琴の張りつめていたものが少しだけほどけた。
和子も静かに息を吐いた。
その時。
コン、コン。
また襖を叩く音が響いた。
三人の視線が襖へ向く。
好江が返事をする。
「へー」
ゆっくりと襖が開いた。
そこに立っていたのは、先ほどの軍人だった。
そして、その隣には通訳の山本がいた。
琴と和子の表情が少し固まる。
軍人は部屋の中を見る。
山本が一歩前に出た。
「こちら、このパーティーの責任者を務めておられます、カート・ハワード中尉でございます」
山本の紹介を聞き、琴と和子は静かに頭を下げた。
カートは少し照れたように笑った。
何かを言おうとしている。
ゆっくり口を開く。
「……ありがとうございました」
たどたどしい日本語。
山本が微笑む。
「今日の舞、本当に素晴らしかったそうです」
そして続けた。
「私からも言わせてください。本当に綺麗でした」
それを聞いた琴と和子は顔を見合わせた。
すると、カートが少し迷うような表情を浮かべた。
そして、山本に何かを尋ねる。
山本が頷く。
「お二人のお名前を聞きたいそうです」
琴は一瞬、戸惑った。
けれど、ゆっくり口を開いた。
「うちは……琴どす」
続いて、和子が静かに頭を下げる。
「和子と申します」
山本が英語で伝える。
カートは二人の名前を繰り返した。
「……コトサン。カズコサン。」
少し不慣れな発音だった。
けれど、その声には覚えようとする気持ちがあった。
そして、二人は少しぎこちなく、けれど、心を込めて頭を下げた。
「おおきに……」
小さな声。
カートも、深く頷いた。
控室には、静かな時間が流れていた。
と、山本が、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ……」
三人が見る。
「少しお待ちください」
そう言うと、山本は急いで襖の外へ出て行った。
琴と和子は顔を見合わせる。
和子は首を傾げた。
しばらくすると。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
そして。
山本が戻ってきた。
その後ろには、一人の男がいた。
大きなカメラを抱えているカメラマンだった。
二人の表情が少し変わる。
山本は軍人に向かって笑顔で言った。
「中尉、よろしければ記念にどうですか?」
軍人は少し驚いたような顔をした。
山本は続いて、琴と和子を見る。
「お二人も……記念に写真を撮ってもよろしいですか?」
その言葉に。
琴と和子は顔を見合わせた。
琴はすぐに小さく首を振った。
和子も困ったように目を伏せる。
断るべきなのか。
受けるべきなのか。
分からなかった。
山本が和子を見る。
「……あなた一人だけでも、お願いできませんか」
和子は顔を上げた。
「え……」
山本は続ける。
「今日は、これからのアメリカと日本にとって、とても良い日になったと思います その記念として……」
和子は黙った。
隣を見る。
琴が不安そうに自分を見ている。
和子の胸に、いくつもの思いが浮かぶ。
健吉のこと。
戦争のこと。
許せない気持ち。
忘れられない記憶。
けれど。
目の前にいる人は、もう、敵はなかった。
自分たちの舞を見てくれた一人の人間だった。
和子はゆっくり息を吐いた。
そして。
軍人を見る。
軍人は何も言わず、ただ静かに待っていた。
床の間の前。
椿の花を描いた掛け軸。
その前に立つよう、山本が軽く手で示した。
軍人が一歩前へ出る。
そして、和子の方を見た。
和子は一瞬、動けなかった。
けれど。
静かにうなずいて、床の間の前に立つ。
軍人の隣。
距離はわずかだった。
しかし、その距離はとても遠く感じられた。
カメラマンがカメラを構える。
レンズが二人に向けられる。
山本が小さく言った。
「少し、笑ってください」
軍人はすぐに微笑んだ。
穏やかな笑み。
先ほど舞を見ていたときと同じ、柔らかい表情だった。
一方で。
和子の表情は変わらなかった。
笑えなかった。
笑う理由が分からなかった。
ただ、そこに立っているだけだった。
軍人が横目で和子を見る。
その表情に、少しだけ戸惑いが浮かぶ。
それでも何も言わない。
カメラマンがレンズを覗き込む。
静かな一瞬。
そして。
「はい、笑って!」
シャッターが切られた。
カシャッ。
次の瞬間。
強い光が部屋を包んだ。
軍人は、その光の中でも微笑んでいた。
しかし。
和子の顔は、そのままだった。
無表情。
まっすぐ前を見ているだけだった。
光が消える。
静けさが戻る。
カメラマンは満足そうに頷いた。
「いいですね」
山本が小さく笑う。
「ありがとうございました」
軍人も軽く肩をすくめた。
和子は、ゆっくりと視線を落とした。
自分が今、何を残されたのか。
まだ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、目の前にいる人は、もう、敵ではなかった。
床の間の前に立つ二人の姿は。
雪の夜の記憶として。
静かに刻まれていった。




