雪の夜の舞
控室には、静かな時間が流れていた。
好江、琴、そして、和子は、正座したまま待っていた。
先ほどの軍人の姿が、まだ琴と和子の心に残っている。
怖いと思った。
けれど。
最後に見たあの表情。
ほんの少しの笑み。
二人には、それが不思議だった。
遠くから音楽が聞こえてくる。
今度は、先ほどのクリスマスソングとは違った。
軽快なリズム。
楽しそうな音。
トランペット。
トロンボーン。
サックス。
遠い国の音楽。
琴は静かに耳を傾けた。
「……変わった音やな」
小さく呟く。
和子は返事をしなかった。
ただ、その音の向こうにいる人たちを思っていた。
戦争で憎しみを抱いた相手。
けれど今、そこには音楽が流れている。
笑い声が聞こえる。
同じ人間の夜がある。
和子は複雑な気持ちのまま、ゆっくり息を吐いた。
その時。
コン、コン。
また襖を叩く音がした。
琴と和子の背筋が伸びる。
好江が静かに襖を見る。
「どうぞ」
襖がゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、先ほどの軍人だった。
先ほどとは違って、固い表情ではない。
どこか楽しそうな顔をしている。
軍人は部屋の中を見る。
そして。
少しだけ笑った。
“It’s showtime!”
(さあ、始まりだ!)
明るい声。
後ろにいた通訳の山本がすぐに訳す。
「そろそろ始まります、という意味です」
琴はその言葉を聞いて、少し戸惑った。
ショー。
舞をすること。
それが、この人たちにとっては楽しみにしている時間なのだ。
和子は軍人を見る。
まだ完全に心を開いたわけではない。
けれど。
さっきまでのような敵を見る目ではなかった。
軍人は二人に向かって、軽く手を差し出した。
「Please」
琴は和子を見る。
和子は小さく頷いた。
「行こか」
琴は息を吸った。
そして立ち上がる。
頭に付けたぼんぼりと、桜の柄の袖が静かに揺れる。
白い雪の夜。
異国の音楽が響く料亭の中。
二人の舞妓が、ゆっくりと襖の向こうへ歩き出した。
大広間。
広い畳の部屋の中央には、長いテーブルと椅子が並べられていた。
本来なら、座布団を敷き、静かに料理を楽しむ京都の座敷。
しかし今夜は違っていた。
畳の上には白いテーブルクロスが掛けられた机。
その上には、洋食器。
壁際には、大きなクリスマスツリーが立っていた。
色とりどりの飾り。
小さな灯りが、静かに輝いている。
軽快なジャズの旋律が、大広間いっぱいに響いている。
その周りでは、軍服姿の男たちが談笑していた。
肩に徽章をつけた高官たち。
その家族たち。
グラスを手に、笑い声を上げている。
戦争が終わってまだ一年。
京都の町には、まだ、その傷跡は残っている。
それでも。
この部屋の中では、戦争に勝った国の人々がクリスマスを祝っていた。
大広間へ続く襖の前。
琴と和子は静かに立っていた。
向こう側から、ジャズの音が聞こえる。
楽しそうな笑い声。
グラスの触れ合う音。
異国の言葉。
琴は小さく息を吐いた。
さっきまで怖いと思っていた場所。
知らない人たちがいる場所。
けれど。
今は、不思議と少しだけ落ち着いていた。
隣には、和子がいる。
琴はそっと横を見る。
和子も前を向いていた。
その表情には緊張があった。
けれど、逃げるようなものではなかった。
覚悟だった。
その時。
大広間の中から、司会者の声が響いた。
英語の言葉。
二人には意味が分からない。
“Ladies and gentlemen, please enjoy a special dance performance brought to you tonight.From the traditional Pontocho district of Kyoto...
(皆様、今夜お届けする特別な舞をお楽しみください 京都の伝統ある花街、先斗町から……)
そして。
“Two young girls... Maiko-san’s show!
(二人の若い娘さん……京都の舞妓さんによるショーです!)
その言葉とともに、大広間から拍手が起こった。
二人は少し驚いた。
自分たちを待っている。
怖いと思っていた人たちが。
今、自分たちの舞を楽しみにしている。
その事実に、胸の奥が少し揺れた。
琴は和子を見る。
和子も琴を見た。
言葉はいらなかった。
小さく頷く。
琴も頷き返した。
大丈夫。
一人じゃない。
二人はゆっくり襖の前へ向き直る。
赤い着物の袖。
だらりの帯。
整えられた髪。
舞妓としての姿。
琴は静かに息を吸った。
そして。
和子と並んで、襖が開く瞬間を待った。
雪の夜。
京都の料亭。
遠い国から来た人々の前で。
二人の舞が始まろうとしていた。
中から拍手の音が聞こえる。
その横では、係員が蓄音機の前に立っていた。
大きな木製の箱。
その中で、一枚のレコードがゆっくりと回っている。
係員は針を手に取り、慎重に落とした。
カチッ。
小さな音。
次の瞬間。
ザァ……。
古いレコード特有の雑音が大広間に響いた。
琴は一瞬、音に驚いた。
けれど。
その雑音の向こうから、聞き慣れた音が流れ始めた。
襖がゆっくりと開く。
大広間の灯りが、二人を照らした。
赤い着物。
揺れるぼんぼり。
白い化粧。
琴と和子が静かに一歩を踏み出す。
会場の話し声が止まった。
軍服姿の男たちや、その家族も。
グラスを持つ手を止めた。
誰もが、二人を見ていた。
琴は少しだけ緊張した。
けれど。
隣には和子がいる。
二人は目を合わせる。
小さく頷く。
そして。
祇園小唄の旋律に合わせて、ゆっくりと舞い始めた。
軍人と通訳の山本は遠くからそれを見つめていた。
「月はおぼろに 東山……」
琴と和子の舞が始まった。
指先。
視線。
袖の動き。
その一つ一つに、京都で受け継がれてきた時間が込められていた。
雪の夜。
異国の宴。
古い蓄音機から流れる京都の唄。
その中で。
二人の舞だけが、静かに大広間を包んでいた。




