一枚の写真の始まり
料亭の中は、外の雪の静けさとは別の時間が流れていた。
玄関を入ると、番頭が三人を迎えた。
「これは……女将さん」
番頭は少し驚いたように目を細めた。
「お久しぶりでございます」
好江も懐かしそうに微笑む。
「ほんまに久しぶりどすなぁ。元気にしてはった?」
「はい。おかげさまで。女将さんこそ、お変わりなく」
「歳だけは取りましたけどな」
二人は小さく笑った。
戦前から続く京都の付き合い。
時代が変わっても、変わらない縁がそこにはあった。
番頭は琴と和子を見る。
「今日は、このお二人さんどすか」
好江が頷く。
「ええ。うちの大事な子らです」
番頭は優しく微笑んだ。
「そうどすか。どうぞ、よろしゅーうおたのもうします」
そして、三人を控室へ案内し始めた。
長い廊下。
磨き上げられた黒い床板には、障子越しの雪明かりが淡く映っていた。
その時。
遠くから音楽が聞こえてきた。
外国の楽器の音。
明るく、どこか不思議な旋律。
クリスマスソングだった。
琴は足を止めそうになった。
京都の料亭。
雪の夜。
その静かな空間に、聞いたことのない異国の歌が流れている。
戦争が終わったとはいえ、まだ誰もが傷を抱えている時代。
その中で、遠い国の祝いの歌だけが、廊下の奥から響いていた。
その音の向こうにいる人たち。
和子は複雑な思いを抱えながら、前を向いた。
琴は、聞こえてくる音楽に耳を傾けながら歩いた。
さっき玄関で見た大きな体。
見慣れない軍服。
あの人たちが、この先にいる。
そう思うと、胸の奥が少し震えた。
その時。
隣を歩く和子の袖が、琴の手に触れた。
和子はそっと手を差し出した。
琴はその手を握った。
和子自身も平気だったわけではない。
廊下の先にいる人たち。
その中には、健吉を奪った戦争の向こう側にいる人間もいる。
それでも。
和子は歩き続けた。
今日は、舞をしに来た。
琴を守るために来た。
それだけだった。
やがて番頭が一つの襖の前で立ち止まる。
「こちらがお控えの部屋になります」
襖が静かに開かれる。
八畳ほどの和室。
琴と和子は中へ入った。
「ここで、待っておくれやす」
番頭が一礼し、襖を閉める。
遠くから聞こえるクリスマスソング。
琴は小さく息を吐いた。
和子を見る。
「かこちゃん……」
「ん?」
「……逃げんといてな」
和子は少しだけ笑った。
「うん 逃げへん」
好江は、琴の帯を整えながら言った。
「大丈夫。いつも通りでええ」
琴は小さく頷いた。
琴と和子が向かい合う。
そして、もう一度だけ舞の確認を始めた。
その時。
コン、コン。
襖を叩く音が響いた。
琴と和子の手が止まる。
好江が静かに襖へ向かった。
「へー」
返事をすると、ゆっくりと襖が開いた。
そこに立っていたのは、背広姿の男だった。
「失礼いたします」
男は丁寧に頭を下げた。
「本日、通訳を務めさせていただきます 山本と申します」
好江が頷く。
「ご苦労さんどす」
山本は部屋の中を見渡し、それから続けた。
「まもなく、お客様がお見えになります」
その言葉に、琴の表情が少し固くなる。
お客様。
そう言われても、その先にいる人が誰なのかは分かっている。
戦争が終わって、京都に来た人たち。
遠い国から来た兵隊たち。
琴は膝の上で手を握った。
すると。
襖の向こうから、もう一つの気配がした。
山本が振り返ると、一人の男が姿を現した。
きちんと着こなされたアメリカ陸軍の軍服。
肩には金色に輝く徽章。
部屋の空気が少し変わった。
琴は思わず目を伏せた。
玄関で見た時よりも、近い。
息遣いまで分かる距離。
怖い。
そう思った。
けれど。
隣にいる和子は違った。
和子は顔を上げていた。
その男を、まっすぐ見ていた。
その目には、恐れだけではないものがあった。
怒り。
悲しみ。
忘れることのできない記憶。
健吉の顔。
帰りを待った日々。
届いた知らせ。
全てが一瞬のように胸の中を通り過ぎた。
和子は唇を結んだ。
目の前の男を見ながら、心の奥で問いかけていた。
あなたたちは、何を奪っていったのか。
けれど。
軍人は何も知らないように、静かに二人を見ていた。
そして。
その視線が琴へ移る。
琴はまだ顔を上げられない。
その時。
和子の手が、そっと琴の手に触れた。
琴は小さく顔を上げた。
男と目が合う。
ほんの一瞬。
長い時間のようにも感じられた。
軍人の表情は固かった。
しかし。
次の瞬間。
ほんの少しだけ。
優しい笑みが浮かんだ。
琴は戸惑った。
鬼のように見えた人。
怖いと思った人。
けれど。
今、目の前にいるのは、一人の人間だった。
山本が静かに口を開く。
“I will let you know when the two of you are expected to perform.”
(お二人が舞を披露される時間をお伝えします)
軍人は頷き、もう一度、琴と和子を見る。
そして、しばらく何も言わなかった。
楽団が奏でる明るい音楽だけが、静かに聞こえていた。
やがて。
小さな声で呟いた。
“Beautiful.”
(美しい)
雪の夜。
京都の料亭。
戦争で分かれた二つの国の人間が、初めて同じ場所で向き合っていた。




