桃太郎と鬼
車は、南禅寺近くの料亭の前で静かに止まった。
雪はまだ降り続いていた。
車の窓ガラスには、白い雪が小さな模様を作っている。
琴は、その結晶越しに外を見つめていた。
料亭の玄関。
そこには、何人もの外国人が立っていた。
背の高い男たち。
見慣れない軍服。
肩についた徽章。
大きな体。
低い声で話す言葉。
琴の目には、その姿がまるで別の世界の人間のように映った。
しばらく黙って見ていた琴が、小さな声で言った。
「かこちゃん……」
「ん?」
和子が振り向く。
琴は窓の外を見たまま呟いた。
「ほんまに……鬼みたいやな」
その言葉に、和子も外を見る。
確かに。
戦争の中で聞いた話。
遠い国から来た兵隊。
自分たちの町を占領した人たち。
和子にとっても、まだ簡単に受け入れられる存在ではなかった。
けれど。
和子は琴の震える手を、もう一度そっと握った。
「……怖いな」
琴が小さく頷く。
和子も静かに頷いた。
「うん」
無理に否定はしなかった。
怖いものは怖い。
知らないものは怖い。
それは、大人も子どもも同じだった。
けれど。
和子は琴を見る。
「でもな」
優しい声で続けた。
「琴ちゃんは、今日のために一生懸命お稽古したやろ」
琴は黙って聞いている。
「うちらは、舞をしに来たんや」
「……」
「それだけでええ」
琴の目が少し潤む。
和子は微笑んだ。
「大丈夫や。うちが隣にいる」
その言葉に、琴は小さく頷いた。
車の外では、雪が静かに降っている。
赤い番傘が、玄関先に立てかけられていた。
白い雪。
異国の軍服。
京都の舞妓。
まるで違う世界が、今、一つの場所に集まろうとしていた。
琴はゆっくり息を吐いた。
そして。
和子の手を握り返した。
車の扉が開いた。
冷たい冬の空気が、二人の頬を撫でる。
琴がゆっくりと降りる。
その瞬間。
料亭の前にいた軍人たちの視線が、一斉に集まった。
その中へ。
赤い番傘を開いた二人の舞妓が立った。
白い雪。
赤い傘。
華やかな着物。
その姿は、戦後の静かな南禅寺の夜に、ひときわ鮮やかに浮かんでいた。
琴は、一瞬足を止めた。
たくさんの視線。
知らない人たち。
胸の奥がまた小さく震える。
その時。
隣にいた和子が、琴を見る。
そして、微笑んだ。
小さな声で。
まるで二人だけの合図のように歌い始める。
「行きましょう、行きましょう……」
琴が和子を見る。
和子は続けた。
「あなたについて何処までも……」
その声は、雪の中に溶けるように優しかった。
「家来になって行きましょう……」
琴の表情が少し変わる。
さっきまで強張っていた顔に、いつもの少女らしい笑顔が戻る。
そうや。
一人やない。
かこちゃんが隣にいる。
琴は小さく息を吸った。
そして、しっかりと前を向いた。
好江が二人を見る。
その目には、安心したような優しさが浮かんでいた。
「ほな、行こか」
好江が先頭に立つ。
その後ろに琴。
そして和子。
三人はゆっくり歩き出した。
雪の上に、三人の足跡が残っていく。
玄関へ向かう道。
そこには、まだ言葉も通じない人たちが待っている。
けれど。
琴の手は、もう震えていなかった。
赤い番傘が雪を受け止める。
三人は静かに、料亭の中へ入っていった。
昭和二十一年十二月二十五日。
この夜。
一枚の古い写真につながる出会いが、静かに始まろうとしていた。




