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赤い番傘

昭和二十一年十二月二十五日。

この日のために。

琴と和子は、何日も好江の指導を受けていた。

演目は、だだ一つ。

「祇園小唄」

月はおぼろに東山

霞む夜毎のかがり火に

夢もいざよう紅桜

しのぶ思いを振袖に

祇園恋しや だらりの帯よ


夜が更けても、置屋「松野」には三味線の音と、二人の足音が響いていた。

眠気をこらえながら。

何度も何度も、同じ所作を繰り返す。

琴は憧れの舞妓として。

和子は琴の隣に立つために。

好江は厳しく、そして優しく二人を見守っていた。

やがて朝を迎える頃。

二人の舞には、少しずつ心が宿っていった。


そして――。

その日の朝。

京都の町には雪が降り始めていた。

細かな白い雪が、屋根の瓦に落ちる。

先斗町の細い路地。

濡れた石畳に、行き交う人の足跡が静かに残っていた。

その一角にある髪結いの店。

中では、琴と和子が並んで座っていた。

鏡の前。

琴は何度も自分の姿を見つめていた。

「……ほんまに、うちが舞妓さんになるんやな」

小さく呟く。

その目は、子どもの頃から憧れていたものを見るように輝いていた。

髪結いの手が、琴の髪を整えていく。

結い上げられた髪。

簪。

少しずつ変わっていく自分の姿。

琴は嬉しそうに笑った。

「かこちゃん、見て」

鏡越しに和子を見る。

「綺麗やろか」

和子は微笑んだ。

「うん……綺麗や」

本当にそう思った。

琴は、もうただの少女ではなかった。

夢見ていた場所へ、今日だけは立つのだ。

そして――。

「次、かこちゃんやね」

そう言われて、和子は静かに鏡の前へ座った。

鏡の中に映る自分。

日焼けした肌。

畑仕事で荒れた手。

それが、和子の知っている自分だった。

髪が整えられていく。

白粉が、顔に塗られていく。

頬。

首筋。

そして、襟元から見える背中。

白い白粉が、少しずつ肌を覆っていく。

畑で太陽を浴びてきた顔。

土を触り、家族を守ってきた手。

その顔が、次第に舞妓の顔へ変わっていった。

和子は、ただ鏡を見つめていた。

「……」

言葉が出なかった。

そこにいるのは、自分なのに。

自分ではないようだった。

健吉と一緒に畑を耕していた女。

夕暮れのあぜ道を歩いた女。

千代子を抱きしめて眠った女。

その全てが、白い化粧の向こう側へ隠れていくような気がした。

「かこちゃん」

琴の声がする。

「綺麗やで」

和子は琴を見る。

琴の顔には、嬉しさが溢れていた。

憧れていた舞妓姿。

今日という日を、ずっと待っていた少女。

和子は微笑んだ。

「琴ちゃんの方が、ずっと綺麗や」

やがて二人は、着物を身につけていく。

鮮やかな衣装。

帯。

帯締め。

草履。

最後に鏡の前に並ぶ二人。

琴は嬉しそうに笑う。

けれど、和子は違った。

ただ、茫然としていた。

華やかな着物。

白い顔。

口には紅。

見慣れない自分。

「……」

その時。

ふと、健吉の顔が浮かんだ。

もし今、あの人がいたら。

「かこ、何やその顔」

そう言って笑うだろうか。

それとも。

「よう似合ってるで」

そう言ってくれるだろうか。

窓の外では、雪が静かに降り続いていた。

戦争が終わって一年。

失ったものを抱えたまま。

それでも人は、生きるために前へ進む。

和子はもう一度、鏡を見た。

そこには。

知らない女性のようで。

けれど確かに、自分自身でもある姿が映っていた。

「行こか」

琴が言った。

和子は小さく頷く。

「うん」

二人は、雪の降る先斗町へ出ていった。

この先に待っている出会いを。

まだ、誰も知らなかった。


夕暮れ。

置屋「松野」の前。

朝から降り続いていた雪は、いつの間にか大きな牡丹雪へと変わっていた。

軒先の灯りが、白い雪を柔らかく照らしている。

玄関の前には、芸妓や舞妓たち。

そして、近所の人たちが集まっていた。

誰もが、今日の二人を見送るために。

しばらくすると。

玄関の奥から、好江が姿を現した。

いつもの穏やかな笑顔。

その後ろから――。

琴。

「琴ちゃん、綺麗になったなぁ」

「ほんま、立派な舞妓さんや」

そんな声が静かに聞こえる。

琴は少し照れながら、皆に頭を下げた。

けれど、その表情には嬉しさと緊張が混じっていた。

そして、和子がゆっくりと出てきた。

一瞬。

皆の声が止まった。

そこにいたのは、いつもの和子ではなかった。

華やかな着物。

整えられた髪。

白い化粧。

舞妓姿の和子。

けれど、その目の奥には、畑で暮らしてきた日々も。

健吉と過ごした時間も。

全てが残っていた。

「……」

和子は少し戸惑うように、皆を見る。

すると、一人の芸妓が優しく微笑んだ。

「かこちゃん」

その声に、和子が顔を上げる。

「皆の代わりしてくれて、おおきに、よう似合うてるえ」

その一言に、和子は小さく頭を下げた。

「おおきに……」

声が少し震えた。

その時。

玄関先で、一人の芸妓が前へ出た。

手には火打ち石。

昔から続く、無事を願う仕草。

カチッ。

小さな音。

火花が散る。

もう一度。

カチッ。

雪の降る夕暮れに、その音だけが響いた。

芸妓は二人を見つめて言った。

「行っといでやす!」

無事に帰ってくるように。

良い夜になるように。

そんな願いを込めた声だった。

琴は深く頭を下げる。

「行ってきます」

和子も静かに頭を下げた。

「行ってきます」

その言葉を口にした瞬間。

和子の胸に、何かが込み上げた。

まるで昔。

健吉を戦地へ送り出した日のようだった。

あの日は、帰ってくる人を見送った。

今日は。

未来へ向かう自分を送り出されている。

違うのは。

今は、一人ではないことだった。

好江が赤い番傘を二人に渡す。

牡丹雪が、その傘に白く積もっていく。

琴が傘を開く。

和子も静かに開く。

赤い傘。

白い雪。

冬の京都の町に、二つの色が浮かんだ。

「ほな、行こか」

好江が言う。

三人はゆっくり歩き出した。

先頭に好江。

その後ろに琴。

そして和子。

石畳に、草履の音が小さく響く。

雪の先斗町。

灯りの揺れる路地。

その先には、まだ誰も知らない夜が待っていた。


そして、三人は、木屋町で役所の車に乗り込んだ。

雪はまだ降り続いていた。

赤い番傘に積もった雪が、車の外で静かに溶けていく。

車はゆっくりと京都の町を進んでいった。

向かう先は、南禅寺近くの料亭。

進駐軍のクリスマスパーティーが開かれる場所だった。

車内は静かだった。

運転席には役所の職員。

後部座席には、好江。

そして、琴と和子。

窓の外には、雪化粧をした京都の町が流れていく。

琴は黙って前を見ていた。

いつもの明るい少女の顔ではない。

「琴ちゃん……」

声をかけようとして、やめた。

きっと怖いのだ。

まだ十三歳。

見たこともない外国人たちの前で。

知らない言葉が飛び交う場所で。

覚えたての舞を披露する。

大人でも緊張する場所だった。

和子は、そっと琴の手を見る。

震えている小さな手。

その上に、自分の手を重ねた。

琴が驚いて和子を見る。

和子は微笑んだ。

琴の目が少し潤む。

和子は、ゆっくり歌い始めた。

「もーもたろさん、ももたろさん……」

小さな声だった。

車の中にだけ聞こえる歌。

琴は黙って聞いていた。

その歌は、子どもの頃から誰もが知っている歌。

何度も聞いた歌。

和子の声は、少し震えていた。

けれど、優しかった。

「お腰につけた、きびだんご、一つ、わたしにくださいな……」

琴の手の震えが、少しずつ止まっていく。

和子は思った。

健吉がいたら。

きっと、同じようにしてやるだろう。

怖くないように。

一人にしないように。

車は雪の道を進んでいく。

南禅寺の鐘の音が、遠くから聞こえた気がした。

「やりましょうやりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう」


戦争が終わって一年。

傷ついた人たちが、それぞれの明日へ向かって歩き始めた時代。

その車の中で。

一人の少女の震える手を。

一人の母親が、静かに包んでいた。









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