健ちゃんの背中
その夜。
置屋「松野」の和子の部屋。
千代子は静かに眠っていた。
小さな寝息。
和子はその寝顔を見ながら、そっと布団を直していた。
その時。
「かこちゃん」
襖の向こうから好江の声がした。
「少し、ええやろか」
「はい」
和子が振り向くと、好江が静かに入ってきた。
しばらく二人は、眠る千代子を見ていた。
「皆さんが可愛がってくれはるからです」
好江は頷いた。
そして、少し表情を変えた。
「かこちゃん」
「はい」
和子は顔を上げた。
「進駐軍のクリスマスの席のことやけど……」
少し間を置く。
「琴ちゃんに踊ってもらおうと思ってる」
和子は黙って聞いていた。
「でも、一人では行かせたくない」
好江は続けた。
「かこちゃん……一緒に行ってくれへんやろか」
和子の目が大きく開いた。
「うちが……?」
「そうや」
和子はすぐには答えられなかった。
「でも……うち、踊りなんてできません 琴ちゃんみたいに、綺麗な舞なんて……」
自分の手を見る。
畑仕事で土にまみれてきた手。
琴のように、誰かに見せるための手ではない。
「うちなんかが行っても……」
好江は静かに言った。
「かこちゃんやから、お願いしてるんや」
その言葉に、和子は黙った。
そして――。
遠い日の記憶が蘇った。
春の日。
故郷の畑。
隣には健吉がいた。
「かこ、そこもう少し深く耕した方がええで」
そう言いながら笑う健吉。
「健ちゃんの方が雑やないの」
和子が笑い返す。
泥だらけになりながら、二人で畑仕事をした日々。
決して裕福ではなかった。
でも、幸せだった。
夕暮れのあぜ道。
近所の子どもたちが走ってくる。
健吉は笑いながら懐から何かを出した。
「ほら、飴ちゃんや」
「またあげてるん?」
和子が笑う。
「子どもは、この村の宝や、大事にせんとあかんしな」
そう言う健吉の顔は、優しかった。
その笑顔を、和子は忘れたことがなかった。
そして――。
出征の日。
たくさんの人の声。
健吉は最後まで笑っていた。
本当は不安だったはずなのに。
和子を安心させるために。
「すぐ帰ってくるからな」
その言葉を信じていた。
けれど。
帰ってきたのは、健吉ではなく、一枚の知らせだった。
「……」
和子は目を伏せた。
胸の奥が痛む。
今でも、あの日のことは消えない。
好江は何も言わず、和子を見ていた。
しばらくして。
和子は小さく息を吐いた。
「うち……」
声が震える。
「まだ、夫のことを思い出します 忘れられへんのです」
好江は静かに頷いた。
「忘れんでええ、大事な人やったんやから」
その言葉に、和子の目から涙が落ちた。
そして、隣の部屋を見る。
琴の姿が浮かんだ。
いつも一生懸命に稽古をする少女。
千代子の手を握って笑う少女。
自分を「かこちゃん」と呼んでくれる少女。
「琴ちゃん……」
和子は小さく呟いた。
あの子も、怖いはずや。
まだ十三歳なのに。
大人でも立てない場所へ行こうとしている。
和子は涙を拭いた。
「女将さん」
「はい」
「うちでよかったら……」
ゆっくり顔を上げる。
「琴ちゃんの隣にいます」
好江は優しく微笑んだ。
「おおきに」
和子は眠る千代子の手を握った。
健ちゃん。
もし、あんたがいたら。
きっと、こう言うやろうな。
――行ってあげてくれ。
――琴ちゃんのために。
好江が笑って言う。
「相手は、踊りのことなんか何にもわからへんアメリカはんや、少々、まちごうてもわからへん。」
それを聞いて和子が微笑む。
冬の夜。
高瀬川の流れは静かだった。
過ぎ去った時間を抱えながら。
それでも、少しずつ未来へ向かって流れていた。




