冬の舞
昭和二十年、師走。
京都の冬は、冷たい風が高瀬川の水面を静かに揺らしていた。
長かった戦争が終わったが、人々の暮らしがすぐに元へ戻るわけではなかった。
けれど、この町並みは昔の姿を残していた。
細い路地。
格子戸の並ぶ家々。
長い年月を重ねてきた京都の景色は、そこにあり続けていた。
しかし、この頃も戦争が残したものは、人々の心と暮らしの中に深く刻まれていた。
配給の食料。
不足する物資。
先の見えない不安。
大切な人を失った悲しみ。
それでも、人々は少しずつ日常を取り戻そうとしていた。
置屋「松野」では、そんな時代の中でも小さな命がすくすくと育っていた。
千代子。
一歳になったばかりの小さな女の子。
最初は知らない場所で泣くことも多かったが、今では松野の誰もがその笑顔を待つようになっていた。
朝になると、芸妓たちが声をかける。
「千代ちゃん、起きたん?」
「ほら、お姉ちゃんの顔見て笑ろてくれた」
舞妓たちは稽古の合間に千代子を抱き上げた。
琴もその一人だった。
まだ十三歳。
自分自身も子どもなのに、千代子の前では少し大人びた顔をする。
「千代ちゃん、今日はええ子にしてたん?」
そう言いながら、小さな手を握る。
千代子は琴の指をぎゅっと握り返した。
そのたびに琴は嬉しそうに笑った。
「この子、うちのこと分かってくれてるんやろか」
和子はそんな琴の姿を見て、何度も救われていた。
夫を失い、故郷を離れ、何も持たずに京都へ来た。
けれど今、自分の周りには千代子を可愛がってくれる人たちがいる。
女将の好江。
芸妓たち。
舞妓たち。
そして、近所の人たち。
血のつながりはなくても、千代子を見守ってくれる人がいる。
和子は時々思った。
「この子は、一人やないんやな」
そう思えることが、何より嬉しかった。
しかし、京都の町には新しい時代の足音も近づいていた。
通りを歩けば、以前には見なかった光景が増えていた。
外国人兵士の姿。
そして、大きな音を立てて走る軍用車。
ジープだった。
石畳の道を、砂埃を上げながら走っていく。
人々は道の端に寄り、その姿を静かに見つめていた。
「アメ公や」
誰かが小さく呟く。
戦争が終わった。
けれど、町の景色はまだ大きく変わり続けていた。
先斗町の花街にも、その影響は少しずつ現れていた。
これまでとは違う客。
これまでとは違う風習。
古くから続いてきた町の中に、新しい時代が入り込もうとしていた。
ある夕暮れ。
和子は千代子を抱いて、高瀬川沿いを歩いていた。
川の流れは、戦争の前も、戦争の後も変わらない。
静かに流れ続けている。
「千代子……」
小さな寝顔を見る。
「この子が大きくなる頃には、どんな世の中になってるんやろな」
その隣で、琴が川を見ながら言った。
「きっと、今よりええ時代になるどす」
和子は琴を見る。
十三歳の少女。
まだ何も知らないようでいて、誰よりも未来を信じている顔だった。
「そうやね」
和子は微笑んだ。
「そうなってほしいね」
高瀬川の水音。
遠くから聞こえる車の音。
古い京都と、新しい時代。
その二つが交わる中で、和子たちは小さな幸せを守りながら暮らしていた。
昭和二十年の冬。
京都は、ゆっくりと戦後へ歩き始めていた。
その日の昼過ぎ。
置屋「松野」の玄関に、一人の男が訪ねてきた。
身なりの整った役人だった。
「女将さんにお願いがありまして」
好江は静かに頭を下げた。
「何どすやろ」
男は少し言いにくそうに口を開いた。
「進駐軍の方々が、京都でクリスマスの催しをされます」
「……クリスマス?」
聞き慣れない言葉に、好江は眉をひそめた。
「そこで、こちらの芸妓さん、舞妓さんに踊りを披露していただきたいのです」
一瞬、静かな空気が流れた。
好江は男の顔を見る。
そして、ゆっくり首を横に振った。
「お断りします」
男は驚いた。
「しかし…… ここにいる子らは」
好江の声は穏やかだった。
けれど、その奥には強いものがあった。
「戦争で、大事な人を失った子ばかりどす」
廊下の向こうを見る。
そこには、稽古をする琴や、働く芸妓たちの姿があった。
「親兄弟を失った子、帰ってくるはずの人を、ずっと待っていた子」
好江は続けた。
「まだ、悲しみは終わってへんのどす そんな仇の前で……」
少し間を置く。
「笑って踊れと言われても、私はこの子らにさせることはできまへん」
男は黙った。
好江の言葉が、重く胸に響いた。
「……女将さん」
しばらくして、男は小さな声で言った。
「実は、他の置屋さんにもお願いしました」
好江は顔を上げる。
「ですが……断られました」
「当たり前どす 皆さん、同じ気持ちどす」
男は深く頭を下げた。
「でも、ここが最後なんです」
「……」
「これからの京都のために」
男は言葉を選びながら続けた。
「日本が、もう一度歩き出すために、お願いします」
好江は何も答えなかった。
男が帰った後も、しばらく玄関に立ったままだった。
外では、遠くから車の音が聞こえる。
進駐軍のジープが、町を走っていく音だった。
戦争は終わった。
けれど、終わったからといって、傷が消えるわけではない。
この町には、帰ってこなかった人を待ち続ける人がいる。
涙を流すこともできず、明日を生きるために働く人がいる。
「どうしたらええんやろな……」
好江は小さく呟いた。
その時、背後から声がした。
「女将さん」
振り返ると、和子が立っていた。
腕には千代子を抱いている。
「聞いてたんか」
和子は静かに頷いた。
好江は千代子を見る。
まだ一歳の小さな命。
この子が大きくなる頃には、どんな時代になっているのだろう。
好江は思った。
守ることだけが、この子たちの未来につながるのか。
それとも、新しい時代へ踏み出すことも必要なのか。
その答えは、すぐには出なかった。
数日後。
好江は何度も悩み、考えた末に、松野の芸妓と舞妓たちに話をした。
「無理にとは言わへん」
そう前置きした。
「嫌な気持ちがある子は、行かんでもええ」
戦争で失ったものは、簡単に忘れられるものではない。
好江も分かっていた。
それでも、これから先の京都を考えた時、何か一歩を踏み出す必要があるのかもしれない。
そう思った。
そして、やっと、行くことを決めた芸妓と舞妓が見つかった。
しかし――クリスマスを目前に控えた朝早く。
「女将さん……」
部屋の前で声がした。
「どないしたん?」
襖を開けると、若い舞妓が申し訳なさそうな顔をしていた。
「熱が……」
布団の中で顔を赤くしている。
額に手を当てる。
「こんなに……」
高い熱だった。
隣の部屋でも、同じように寝込んでいる子がいた。
風邪がうつったのか。
よりによって、この時に。
好江は黙って二人の顔を見る。
「大丈夫か。今は休み」
そう言いながらも、胸の奥では焦りが広がっていた。
当日まで、もう時間がない。
代わりに出られる者はいないか。
声をかけた。
しかし――。
「すんまへん……」
「うちには、まだ無理どす」
皆、静かに首を横に振った。
責めることはできなかった。
誰もが戦争を知っている。
誰もが、あの軍服を見るだけで胸が痛む。
好江は一人、廊下に立った。
どうするべきなのか。
断るべきなのか。
それとも――。
その時。
庭先から、小さな声が聞こえた。
「女将さん?」
振り返ると、琴が立っていた。
稽古帰りなのか、手には扇子を持っている。
まだ十三歳。
けれど、その目には昔より少しだけ大人びた強さがあった。
好江はしばらく琴を見る。
そして、静かに言った。
「琴ちゃん」
「はい」
「お願いがあるんや」
琴は首を傾げた。
「お願い?」
好江はゆっくり続ける。
「クリスマスの席で……踊ってくれへんやろか」
一瞬。
琴の表情が止まった。
「……うちが?」
「そうや、行くはずやった、梅香はんと静江ちゃんが熱だしてしもうて……」
琴は目を伏せる。
「でも……」
言葉が続かない。
進駐軍。
その名前を聞くだけで、胸の奥に何かが引っかかる。
戦争で父を失った子。
帰らなかった兄を待つ子。
涙を隠して働く大人たち。
その人たちの気持ちを、琴も知っていた。
「うち……まだ舞妓でもないどす」
小さな声。
好江は優しく言った。
「知ってる」
「踊りも、まだまだどす」
「それも知ってる」
琴を見る。
「でもな」
少し間を置く。
「琴ちゃんの踊りには、人の心を動かすものがある」
琴は驚いた顔をした。
それは、以前和子が言ってくれた言葉と同じだった。
「……」
好江は続けた。
「それに」
「はい」
「これは、戦争を忘れろ言うためやない」
「……」
「憎しみを消せ言うためでもない」
高瀬川の方を見る。
「これから生きていくための、一歩やと思うんや、アメリカはんに、京の舞いをお見せしよやないか」
琴は黙っていた。
しばらくして、小さく呟く。
「行くの、うち、一人どすか……」
好江は琴を静かに見ていた。
そして気づいた。
琴の肩が、ほんの少し震えていることに。
「うち……踊ることは怖くないどす」
「……」
「でも、あの人たちの前で……」
言葉が詰まる。
好江は何も言わず、琴のそばに座った。
「かこちゃんとやったら……行けるか?」
琴が顔を上げる。
好江は少し笑った。
「……え?」
琴の目が大きく開く。
「かこちゃん……?」
「そうや」
好江は廊下の方を見る。
そこには、千代子を抱いた和子が立っていた。
好江は頷いた。




