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高瀬川の約束

置屋「松野」での暮らしが始まってから、和子は少しずつ先斗町の生活に慣れていった。

朝から掃除や洗濯をし、芸妓たちの身の回りの手伝いをする。

慣れないことばかりだったが、和子は弱音を吐かなかった。

いつの間にか、松野の人たちは和子のことを、故郷で呼ばれていた名前のまま「かこちゃん」と呼ぶようになっていた。

先斗町に来たばかりの頃は、知らない町、知らない人ばかりだった。

けれど、その呼び名を聞くたびに、和子は遠い故郷の温もりを思い出した。

「かこちゃん」

その声は、和子にとって少しずつこの場所が自分の居場所になっている証でもあった。

けれど、ただ、一つだけ気がかりなことがあった。

夜になると、千代子が泣くことがあった。

まだ幼い子ども。

知らない場所での生活に、不安を感じているのかもしれない。

そんな夜は、和子は千代子を背中におぶった。

「よしよし……」

小さく揺らしながら、子守唄を歌う。

眠りにつくまで、和子は高瀬川の畔を歩いた。

静かに流れる川の音。

夜の先斗町の灯り。

その中で、和子は何度も千代子に語りかけた。

「大丈夫やからな」

それは千代子に向けた言葉であり、自分自身に向けた言葉でもあった。


そんな日々が続いたある日の夕方。

高瀬川に架かる小さな橋の上で、琴は一人遊んでいた。

手には、おじゃみ。

小さな布の袋を放り上げては、慣れない手つきで受け取ろうとしている。

しかし――。

「……あ」

また一つ、川沿いの道へ落ちた。

琴は悔しそうに拾い上げる。

そこへ、和子が通りかかった。

「琴ちゃん、何してるの?」

振り返った琴は笑った。

「おじゃみどす」

「上手やね」

そう言いながら、和子は琴の手元を見る。

そして、少し笑った。

「でも……ちょっと違うかな」

「え?」

琴が不思議そうな顔をする。

和子は足元に落ちたおじゃみを拾った。

「こうするんよ」

和子は小さな頃、故郷で覚えた手つきで、おじゃみを投げた。

ひい。

ふう。

み。

布のおじゃみが、まるで手の中で踊るように動く。

琴は目を丸くした。

「すごい……」

「田舎では、よう遊んだんよ」

和子は笑った。

「子どもの頃、友達と何回できるか競ったもんや」

琴も真似をしてみる。

けれど――。

ぽとり。

おじゃみはすぐに落ちた。

「……難しい」

琴が少し困った顔をする。

和子は笑った。

「かこちゃんは、なんでそんな上手なん?」

「何度も失敗したから」

その言葉に、琴は少し考える。

そして、もう一度おじゃみを手に取った。

夕暮れの高瀬川。

小さな橋の上で。

花街で生きる少女と、遠い田舎から来た母親。

二人は、初めて同じ時間を笑い合った。

琴の手の中のおじゃみが、またひとつ足元に落ちた。

「難しいどすなぁ うち、手は器用やないさかい」

琴が少し困ったように笑う。

和子はその様子を見て、ふっと笑った。

「琴ちゃん」

「はい?」

「おじゃみ、教えてあげる代わりに……」

少し間を置いて、和子は続けた。

「踊り、教えてくれへん?」

琴は目を丸くした。

「え?」

「琴ちゃん、毎日踊りの稽古してるやろ?」

琴は少し照れたように頷いた。

「うん……」

「私、盆踊りぐらいしか、踊りなんてしたことないから」

和子は川の流れを見る。

「でも、琴ちゃんが踊ってるところ、きれいやなぁって思ってた」

その言葉に、琴は驚いたように和子を見る。

自分にとって踊りは、舞妓になるために覚えなければならないものだった。

毎日の稽古。

何度も注意される足の運び。

覚えなければならない所作。

時には辞めたいと思うこともあった。

けれど、和子の言葉を聞いて、初めて自分が大切にしているものを誰かに褒めてもらえた気がした。

「……うちでええの?」

琴が小さな声で聞く。

和子は笑った。

「琴ちゃんやから、お願いしてるんよ」

琴は少し黙った。

そして、嬉しそうに笑った。

「ほんなら……少しだけやで」

琴は橋の上で姿勢を正した。

夕暮れの高瀬川。

静かに流れる水の音。

先斗町の灯りが少しずつともり始める。

「まずな、背筋を伸ばすん」

琴が言う。

「手は、こう」

小さな手がゆっくり動く。

まだ十三歳の少女。

けれど、その指先には、この町で受け継がれてきたものがあった。

和子は真剣な顔で琴の真似をする。

「こう?」

「うん……でも、もうちょっと柔らかく」

「難しいね」

「おじゃみより難しいやろ?」

琴が笑う。

和子も笑った。

「ほんまやね」

二人の笑い声が、高瀬川の畔に小さく響いた。

一人は、田舎で覚えた素朴な遊びを。

一人は、先斗町で受け継ぐ舞を。

互いの大切なものを分け合いながら、二人の間には少しずつ家族のような絆が生まれていった。


季節は、ゆっくりとめぐっていった。

春。

高瀬川沿いの桜並木が、淡い色に染まった。

和子は千代子を背中に乗せて歩き、琴はその隣で舞妓になるための稽古の話をしていた。

「いつか、きれいな着物着られるやろか」

そう話す琴に、和子は笑った。

「琴ちゃんなら、きっと似合うわ」

その言葉を聞くと、琴は少し照れたように笑った。

夏。

先斗町の町には、祇園ばやしの音が響いた。

暑い夕暮れ、高瀬川の風に吹かれながら、二人は橋の上で足を止めた。

遠くから聞こえる笛や太鼓の音。

戦争で失われたものが多い時代でも、京都の町は少しずつ昔の姿を取り戻そうとしていた。

秋。

高瀬川沿いの木々が赤く染まった。

琴は落ちていた紅葉を拾い、笑いながら和子に渡した。

「きれいやね」

「ほんまやね」

二人は並んで歩いた。

先斗町で生まれ育った琴。

遠い田舎から来た和子。

本来なら交わることのなかった二人だった。

けれど、同じ町で暮らし、同じ景色を見ながら、少しずつ家族のような絆を深めていった。


そんなある日の夕方。

置屋「松野」の奥の小さな部屋から、かすかな足音が聞こえていた。

琴と和子だった。

「琴ちゃん、ほんまにこれで合ってる?」

和子が真剣な顔で尋ねる。

「うん。でも、もうちょっと指先ぴんと伸ばして」

琴は小さな先生のような顔で教える。

和子は見よう見まねで手を動かした。

ぎこちない動きに、琴は思わず笑ってしまう。

「かこちゃん、ちょっと固い」

「そう?」

「もっと力抜いて」

二人は顔を見合わせて笑った。

琴はまだ十三歳。

けれど、自分が毎日習っている踊りを誰かに教えることが嬉しかった。

和子もまた、琴の一生懸命な姿を見るのが楽しかった。

本来なら厳しい稽古の時間。

けれど二人にとっては、笑顔の時間になっていた。

その様子を、廊下の向こうから好江は静かに見ていた。

「あの子ら……」

小さく呟く。

最初は、子どもを連れた若い娘を受け入れることに迷いもあった。

けれど今では、和子がいることで松野の空気が少し柔らかくなったことを感じていた。

琴もまた、和子と出会ってから少し変わった。

舞妓になるための稽古だけではなく、誰かと笑い合うことの温かさを覚えていた。

まだ年端もいかないの少女。

けれど、その心には少しずつ大人になる準備が始まっていた。

好江は二人の姿を見ながら、微笑んだ。

そして、何も言わず、そっとその場を離れた。

昭和二十一年の終わり。

先斗町の冬は、静かに近づいていた。









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