戸籍の向こう側
その夜。
横須賀のホテルの部屋で、美砂子は一人、机に向かっていた。
窓の外では港の灯りが静かに揺れている。
テーブルの上には、つくし学園で受け取った戸籍謄本。
何度も開いては閉じ、また開く。
知らない女性の名前。
その横に記された本籍地。
京都府――。
美砂子はスマートフォンを手に取った。
地図アプリを開く。
表示された場所は、京都市内ではなかった。
山に囲まれた小さな集落。
観光ガイドにも載らないような農村だった。
「いったい、ここは……」
思わず呟く。
この人は、私とどんな関係があるのでろうか。
胸の奥に小さな違和感が残る。
施設で育った美砂子は、自分の親についてさえほとんど知らなかった。
母子家庭だったと言うことは理事長から聞いていた。
けれど、それ以上は知ろうとは思わなかった。
もし、捨てられたのだとしたら。
それは、知ることが怖かったかもしれない。
考えるたびに、心のどこかで蓋をしてきた。
だが今は違う。
理事長が亡くなる前に残した封筒。
あの人は何を伝えたかったのだろう。
なぜ今だったのだろう。
机の上に置いた戸籍を見つめる。
その時だった。
ふと、脳裏に一本の映画企画が浮かんだ。
次回作の準備は進んでいない。
脚本も白紙に近い。
けれど――。
「取材、か」
誰に言うでもなく呟く。
美砂子はしばらく考えた後、スマートフォンを手に取った。
登録されている番号を押す。
数回の呼び出し音の後、相手が出た。
「もしもし」
「遅くにすみません。美砂子です」
「ああ、監督。珍しいですね」
映画会社のプロデューサーだった。
「何かあったんですか?」
美砂子は少しだけ言葉を探した。
「少し京都へ行こうと思っています」
「京都?」
「ええ。個人的な用事ですけど」
受話器の向こうで短い沈黙があった。
「次回作の件ですか?」
「半分は」
思わず苦笑する。
「半分は自分のためです」
「そうですか」
プロデューサーの声は穏やかだった。
「監督、最近ずっと詰めていましたからね たまには気分転換も必要ですよ」
前作は批評も興行成績も振るわなかった。
期待されていた分だけ、落胆の声も大きかった。
美砂子自身も、自分が何を撮りたいのか見失いかけていた。
「何か見つかるといいですね」
「見つかるかどうかは分かりませんけど」
「まあ、そんなに気を落とさずに 監督の作品を待っている人はいますから」
「ありがとうございます」
電話を切る。
静かな部屋に再び沈黙が戻った。
テーブルの上には戸籍謄本。
京都府――。
その文字を見つめながら、美砂子はゆっくり息を吐いた。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、このまま知らないまま生きていくことも、もうできなかった。
美砂子はスマートフォンを手に取った。
京都行きの新幹線。
予約完了の画面が静かに表示される。
もう後戻りはできなかった。




