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知らない名前

春の陽射しが、古い桜の枝を照らしていた。

美砂子は、ゆっくりと門柱を見上げる。

『児童養護施設 つくし学園』

白い文字は少し色褪せていた。

最後にここを訪れたのは、いつだっただろう。

映画のロケハンで横須賀へ来たついでだった。

懐かしい場所を見てみよう。

そんな軽い気持ちだった。

けれど門をくぐった瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。

幼い頃に遊んだ中庭。

夕方になると響いていた子供たちの声。

泣きながら隠れた倉庫の裏。

どれも変わっていないようで、少しずつ変わっていた。

「美砂ちゃん?」

振り返ると、一人の女性が立っていた。

施設長の中村久美だった。

昔は若い職員だったが、今では理事長の後を継いで施設を任されている。

「久美先生」

美砂子は小さく頭を下げた。

久美は微笑みながら近付いてくる。

「元気そうで良かった。テレビで映画祭のニュース見たわよ」

「批評はさんざんですけどね」

「そんなことないでしょう」

久美は優しく笑った。

その笑顔は昔と変わらなかった。

しばらく施設を見て回った後、二人は職員室でお茶を飲んでいた。

窓の外では子供たちがボールを追い掛けている。

その姿を見ながら、久美がふと思い出したように口を開いた。

「そうだわ」

立ち上がる。

そして奥の書庫へ消えた。

しばらくして戻って来た久美の手には、茶色い封筒があった。

「これ、あなたに渡してほしいって」

「私に?」

「理事長先生が亡くなる前に」

美砂子は思わず封筒を見つめた。

理事長は三年前に亡くなっていた。

子供の頃から父親代わりのような存在だった。

「私に?」

「ええ」

久美は静かに頷く。

「先生、ずっと金庫に入れていたの」

職員室の空気が少しだけ重くなった。

美砂子は封筒を受け取る。

予想よりも薄かった。

中には一枚の書類しか入っていない。

折り畳まれた戸籍謄本だった。

「何ですか、これ」

「私も知らないの」

久美は首を横に振った。

「先生からは、いつか美砂ちゃんが来たら渡してほしい。それだけ」

美砂子は、その戸籍謄本を開いた。

そこには、知らない女性の名前。

その下に記載された本籍地。

美砂子は眉をひそめた。

なぜ今になって、こんなものを渡されたのだろう。

窓の外では、春風に桜の花びらが舞っていた。

その時の美砂子は、まだ知らなかった。

この一枚の戸籍が、自分を京都へ導くことになるとは。

そして高瀬川のほとりで、一枚の古い写真と、一人の芸妓の人生に出会うことになるとは。









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