風の残る家
春の終わりの風が山を渡っていた。
小さな路線バスが停まり、扉が開く。
美砂子はキャリーケースを引きながら地面へ降り立った。
バス停の名前は聞き慣れないものだった。
乗客は美砂子一人。
運転手が軽く会釈をすると、バスはゆっくりと走り出す。
道路の両側には田畑が広がっていた。
遠ざかるエンジン音。
やがてバスは田畑の向こうへ小さくなり、見えなくなった。
あとに残ったのは風の音だけだった。
美砂子は立ち尽くす。
見渡す限り、畑。
ところどころに古い民家が点在している。
その向こうには山並みが連なっていた。
スマートフォンの地図には確かに目的地が表示されている。
だが、本当にここなのかと疑いたくなるほど静かな場所だった。
戸籍に記されていた住所までは徒歩で十分ほどだった。
舗装された細い道の脇には用水路が流れていた。
時折、農作業をする人の姿が見える。
だが声を掛けることはできなかった。
何を聞けばいいのか、自分でも分からなかったからだ。
ただ足だけが前へ進む。
やがて地図の表示が目的地に近づいていく。
そして美砂子は立ち止まった。
そこにあったのは、一軒の古い家だった。
瓦屋根の隙間には雑草が根を張り、庭には背丈ほどの雑草が揺れていた。
窓は閉ざされ、人気はない。
朽ちた門柱が、長い年月をそこに立ち続けてたことを物語っていた。
美砂子はゆっくりと近づく。
表札は外されていた。
郵便受けには錆が浮いている。
誰も住んでいない。
それだけは分かった。
風が吹く。
庭先の草がかすかに揺れた。
美砂子は門の前で立ち尽くす。
ようやく辿り着いた場所だった。
けれど、そこには答えではなく、静かな空き家だけが残されていた。
その時だった。
遠くからエンジン音が聞こえてくる。
一台の軽トラックが細い道をゆっくりと近づいてきた。
荷台には農具が積まれている。
軽トラックは空き家の前を通り過ぎかけたが、不意に速度を落とした。
運転席の老人が美砂子を見ている。
やがて車は少し先で止まった。
窓が開く。
「どないしはったんや?」
京都訛りの残る穏やかな声だった。
美砂子は少し驚いて振り返る。
「その家、誰も住んでへんで」
老人はそう言って空き家を見た。
美砂子は迷った。
だが、ここまで来て何も聞かずに帰ることはできなかった。
バッグから戸籍のコピーを取り出す。
「実は、この住所を訪ねて来たんです」
老人は紙を受け取る。
そして記された名前を見た瞬間、表情が少しだけ変わった。
「……ああ」
小さく漏れた声。
美砂子は息を呑む。
老人はしばらく空き家を見つめていた。
それは、まるで遠い昔を探しているようだった。
やがて小さく息を吐く。
「懐かしい名前やな……」
美砂子は思わず身を乗り出した。
「ご存じなんですか?」
老人はゆっくり首を傾げた。
「知っとる言うても、わしはその頃まだ子供やったからなぁ」
そう言って苦笑する。
「せやけど、この家に若い夫婦がおったことは覚えとる」
老人の視線は再び空き家へ向いた。
「仲のええ夫婦やった ようここ通りがかったらアメ玉くれよった」
風が吹き、庭の雑草が揺れる。
「旦那さんは戦争で兵隊に取られてな」
美砂子の胸が小さく震えた。
老人は続ける。
「それから先のことは、よう知らんのや」
少し申し訳なさそうに肩をすくめた。
「わしも子供やったさかいな」
期待していた答えには届かない。
だが、確かに何かを知っている。
美砂子は思い切って尋ねた。
「そのご夫婦を詳しく知っている方は、もういないんでしょうか」
老人はしばらく考え込んだ。
やがて何かを思い出したように顔を上げる。
「ああ…… 生きとったらの話やけど、一人おるかもしれんな」
「え?」
「藤村小乃さんゆうて、その夫婦と一緒に育った人や」
老人は懐かしそうに目を細める。
「幼なじみいうやつやな」
美砂子は息を呑んだ。
老人は続ける。
「前に、大原の老人ホームに入っとるって聞いたけどな」
「大原……」
「生きたはったら、もう百歳にならはるかもな」
そして空き家へ目を向ける。
風が二人の間を吹き抜けた。
美砂子は静かに戸籍のコピーを握りしめる。
ようやく辿り着いた場所は空き家だった。
けれど、その先に続く道が見え始めていた。
老人は軽トラックのダッシュボードからメモ帳を取り出した。
施設の名前を書き付ける。
「一回、電話で聞いてみ」
紙を受け取りながら、美砂子は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
老人は照れくさそうに笑って、エンジンをかける。
「ただな」
老人は最後に言った。
「昔の話には、聞かん方がええこともある」
美砂子は顔を上げた。
老人は少しだけ遠くを見るような目をしていた。
「それでも知りたいんやったら、行ったらええ」
軽トラックはゆっくり走り出した。
残された美砂子は、手の中のメモを見つめる。
そこには大原の介護施設の名前が書かれていた。
山の向こうから吹く風が、静かに頬を撫でていった。




