第七十六話「バカ親ヴェルト」
翌朝、カイラは妙に大人しかった。
昨日とは違い、俺の腕にもたれかかることもない。
膝の上に座ることもない。
椅子にきちんと座って、トーストを小さくかじっている。
それはそれで、怖かった。
「カイラ?」
「なぁに?」
「今日は、その、大丈夫なんだな?」
「……昨日の私、おかしかったよね?」
カイラが、トーストを見つめたまま言った。
「……まぁ。」
「まあ?」
「多少、な?」
「……いや、あれは…。その。」
カイラは、少しだけ耳を赤くした。
「二年間、頑張ったので。」
「うん。」
「……反動が。」
「きてりゅ?」
「……忘れてください。」
忘れられるわけがなかった。
カイラは顔を赤くしたまま、こちらを見上げる。
「迷惑だったよね?」
「まぁ、動きにくくはあったな。」
「ごめんね?」
「でも、迷惑ではなかったよ。」
カイラが、トーストを持ったまま固まった。
「……ジュディ、やっぱりずるい。」
「はは。昨日も言われたな。」
「何度でも、言うよ。」
向かいでサヤが棒付きキャンディを転がす。
「何この空気。朝から胸焼けしそうなんだけど。」
「……サヤ。」
「何よ。」
「昨日、なんで助けてくれなかったんだ?」
「え、埋め合わせって言ったじゃん。嫌がらせも兼ねてるけど。」
ひどいと思った。
でも、何も言い返せない。
「言っとくけど、私はまだ満足してないから。」
「……まだ続くんっすか?」
「当然っしょ。分割払いだっつーの。」
カイラが、少しだけ笑った。
いつもの笑い方だった。
そんな朝に、ヴェルト・クロイツから通信が入った。
—
画面の向こうのヴェルトは、いつも通りだった。
整った白髪と静かな目。
感情を隠すのが上手い人間の顔。
「朝早くに失礼。取り込み中だったかい?」
「いえ、大丈夫です。」
ヴェルトの視線が、俺の後ろへ向いた。
カイラとサヤが、それぞれ食卓に座っている。
「……そちらの方々は?」
「知り合いです。一緒に、暮らしています。」
「エルナの、知り合いかい?」
カイラが、少しだけ背筋を伸ばした。
「はい。エルナさんには、お世話になりました。」
「……そうか。」
ヴェルトが、少し間を置いた。
「お名前を聞いても?」
「カイラ・ドゥーナです。」
「サヤ・ウインドウよ。」
ヴェルトは、二人の顔を順番に見た。
何かを確かめるような目だった。
「……初めまして。ヴェルト・クロイツと申します。」
そのまま、ヴェルトは俺に視線を戻す。
「ジュディ君。」
「はい。」
「今夜、予定は空いているかい?」
「え、えぇ。空いてはいますが……。」
ヴェルトは、それを聞いて満足そうに頷いた。
「よければ、今夜食事でもどうかな?」
「あぁ、なるほど。俺は、全然構いませんよ。」
「できれば、そちらのお二人もいかがかな?」
俺は、カイラとサヤを見た。
カイラが小さく頷く。
サヤは飴を転がしながら、「まぁ。」と言った。
「お誘いいただき、ありがとうございます。」
「はは。礼儀正しいね、君は。傭兵とは思えない。」
「いえいえ、そんな。そちらにお伺いすればよろしいですか?」
「あぁ。待っているよ。迎えを寄こそう。」
そうして、俺達はクロイツ家で夕飯をご馳走になることになった。
—
夜の七時、クロイツ家の一室。
誘われた俺達は、夕食をヴェルトと共にしていた。
最初の十分は、普通だった。
礼儀正しい挨拶。整った食卓。静かな食事。
問題は、その食後の酒が二杯目に入ったあたりからだった。
「ははは!その時、エルナはね、私のベッドに潜り込んでいたんだよ。」
「……は、はぁ。」
「ジュディ君!」
「はい。」
「飲んでるかね!?」
「は、はい!」
ヴェルトのテンションが異常だった。
俺の肩を組み、フラフラと左右に揺れている。
「いや~。良いものだな!娘の話ができるのは!」
そんなことを言いながら、ヴェルトが立ち上がった。
部屋の端に置かれた、小さな機械のようなものを操作している。
「……それは?」
「少し、待ちたまえ。」
天井から、何かが降りてきた。
白いスクリーンだった。
嫌な予感がした。
「あの……。」
「まぁまぁ、そう急くな!」
別に急かしてはないんだけど……。
ヴェルトが、手元の端末を操作した。
部屋の照明が、少し落ちた。
スクリーンに、映像が映し出された。
エルナだった。
幼い頃の写真から始まった。
三歳か四歳くらいだろうか。
大きな目で、真剣な顔をして本を抱えている。
「……。」
「……。」
「……。」
三人とも、黙っていた。
愛が、重かった。
これ、エルナ見られるの嫌がるんじゃないだろうか。
「あ、かわいい……。」
カイラが小さく呟いた。
「いや、かわいいけどさ。」
サヤが棒付きキャンディを転がす。
「これ、本人の許可取ってんの?」
誰も答えなかった。
たぶん、取っていない。
胸元の宝石が、ほんの少し震えた気がした。
次の写真。
少し大きくなったエルナが、庭に立っている。
相変わらず、本を抱えている。
表情は、むっつりしている。
「この頃から、本が好きでね。」
ヴェルトが、ワインを一口飲んだ。
もう、この人止まんないな。
「庭に出ても、本を持っていくんだ。読みながら歩いて、石につまずいて転ぶ。そしてまた読む。」
「……なんか、想像できちゃいますね。」
カイラが、小さく言った。
次の写真。
エルナが食卓で、何かを食べている。
少し眉をひそめた顔で、皿を見ている。
「この料理がね。」
ヴェルトの声が、少し柔らかくなった。
「エルナの好物だった。でも、好きだとは絶対に言わなかったよ。」
「……さっき、ご馳走になりましたね。」
「あぁ。正直、私は酸味が強くて苦手なんだよ。」
「あはは。」
俺は少しだけ笑った。
エルナの好みは、昔から変わらないみたいだ。
写真が、次々に変わっていく。
エルナの七歳、八歳、十歳。
どこにいても、本を持っている。
たまに、硬い顔で父親の隣に立っている。
「この写真は?」
「クロイツ家の年次行事だ。年に一度、並んで写真を撮るのが通例でね。」
「エルナ、全然笑ってないですね……。」
「あぁ。ずっと本の続きが気になると言っていたよ。」
サヤが、小さく吹き出した。
「……エルナらしい。」
スライドショーは、しばらく続いた。
エルナが家を出る少し前くらいで、写真は終わった。
ヴェルトが、照明を戻した。
少しだけ、目が赤かった。
「……君たちは、エルナとよく話していたのかい?」
「はい。」
カイラが答えた。
「どんなことを。」
「研究のこととか。ジュディのこととか。」
「……ジュディ君のこと。」
ヴェルトが、俺を見た。
「エルナさん、ジュディのことよく怒ってましたよ。」
サヤが、飴を転がしながら言った。
「そうかね。」
「でも、なんかこう……心配そうでもあって。」
「……そうか。」
ヴェルトが、グラスを置いた。
「あの子は、すこし天邪鬼なところがあったからね。」
「……そこが、エルナらしいですよね。」
俺は、気づいたら言っていた。
ヴェルトが、少しだけ目を細めた。
それだけだった。
—
その後も、晩酌は続いた。
会話は、エルナの話が中心だった。
朝が弱かったこと。
本屋では楽しそうだったこと。
酢ラーメンが好きなのに、言わなかったこと。
ヴェルトは、そのたびに「そうか」と言った。
嬉しそうに、言った。
けれど、何度目かの「そうか」のあとで、少しだけ声が静かになった。
「……ジュディ君。」
「はい。」
「君は、エルナのことを、どう思っていたんだね。」
直球だった。
俺は、コーヒーを一口飲んだ。
「……大事でした。」
ヴェルトが、黙って聞いていた。
「全然、エルナのこと分かってなかったと思うんですけど。それでも、大事でした。」
しばらく、沈黙があった。
ヴェルトが、グラスを置いた。
「娘は、君と出会えてよかったのだろう。」
「……そうでしょうか。」
「そうでなければ、あの子は世界を好きだとは言わない。」
言葉が、少し遅れて落ちてきた。
カイラが、コーヒーカップを静かに置いた。
サヤは、飴を転がすのをやめていた。
「……ありがとうございます。」
それしか言えなかった。
ヴェルトは、頷いた。
—
「ところで。」
ヴェルトが、唐突に言った。
もう何杯目になるか分からないワインを手に持っている。
「君は今、どんな生活をしているんだね。」
「……工房で、傭兵をしています。」
「ほう。三人で暮らしているのか。」
「えぇ。」
「この二人と。」
「はい。」
ヴェルトが、少しだけ目を細めた。
「……君は、独り身かね?」
カイラが、ワインを一口飲んだ。
ほんの少しだけ頬が赤い。
そのまま、何でもないことみたいに言った。
「ジュディって、奥さんいるんですよ。子供も。」
沈黙。
「え。」
思わず、俺は声を出してしまった。
「カイラ?」
「うん?」
「もっと、あの、分かんないかな?」
「え、独り身かって聞かれたじゃん?」
「文脈をね?読もうか?」
ヴェルトが、グラスをゆっくりテーブルに置いた。
「……。」
静かだった。
暖炉の火が、パチと鳴った。
「……ジュディ君。」
低い声だった。
「はい。」
「妻子がいるのかね?」
「……はい。」
ヴェルトが、立ち上がった。
ゆっくりと、俺の方へ歩いてくる。
目が、据わっていた。
ワインのせいか、それとも感情のせいか。
「……き、君。」
声が、少しだけ震えていた。
「し、死にたいのかね?」
「……死にたくはないです。」
「では、なぜ。」
「いや、エルナとは……。」
「娘とは、遊びだったのかね?」
遊びも何も、何もねーよ。
いや、あったのか?
分かんない。混乱してきた。
「……エルナとは、遊びなんかじゃないです。」
「……こ、こ、殺……。」
頼む、頼むから落ち着いてくれ。
めっちゃ怖い。
「エルナは、俺にとって大事な人でした。それしか、俺には言えません。」
俺は、ヴェルトを見た。
真っすぐに。
「エルナも、俺を知った上で大切だと言ってくれた。」
ヴェルトの目が、少しだけ揺れた。
「俺達の間に、不誠実な感情はありません。」
「……。」
「絶対に。」
しばらく、誰も喋らなかった。
暖炉が、静かに燃えていた。
ヴェルトが、ゆっくりと椅子に戻った。
グラスを手に取った。
一口、飲んだ。
「……そうか。」
低い声だった。
でも、さっきとは違う低さだった。
「あの子らしい。」
それだけだった。
カイラが、小さく息を吐いた。
サヤは、飴を口に入れた。
「……すまなかった。」
ヴェルトが、静かに言った。
「いえ。」
「ただ、私の気持ちも汲んでくれ。」
ヴェルトが、壁のエルナの写真を見た。
「娘が選んだ人間が、どんな人間なのかは知りたかった。」
「……俺は、どんな人間でしたか?」
我ながら、間抜けな質問だった。
でも、ヴェルトは少しだけ笑った。
「はは。悪くないと思っているよ。」
呟くように、言った。
「あぁ。あの子が選んだのなら、悪くない。」
—
帰り際、玄関でヴェルトが言った。
「その、色々と情けない姿を見せてしまったね。」
三人に向けて言っていた。
「しかし、話せてよかったよ。」
静かな声だった。
感情の多い声、とまでは言えない。
でも、本当のことを言っている声だった。
「……本日は、お招きいただきありがとうございました。」
「あぁ。」
「また、来ます。」
俺達は、そのまま踵を返した。
ヴェルトに呼び止められる。
「ジュディ君。」
「……はい?」
「……握手を。」
ヴェルトが、手を差し出していた。
俺は、迷いなくその手を取る。
大きく、守るべきものを支えている手だった。
「娘と出会ってくれて、ありがとう。」
「……っ。」
少しだけ、胸が詰まった。
そんなこと、俺が言われる資格があるのか。
「こ、こちらこそ。」
「……。」
「エルナと出会えて、良かったです。」
「……そうか。」
そのまま、俺達はクロイツ家を後にした。
フィーレの風が俺の頬を撫でた。
いつか、エルナと坂を歩いた時に、感じた風だった。
第七十六話、お読みいただきありがとうございました!
ヴェルト・クロイツが壊れた回でした。
いや、スライドショーを仕込んでいるあたり、相当な親バカでしたね。
ヴェルトは、娘のことを語る機会がなかった分、相当嬉しかったんですね。
次回も引き続き間章です。
明日も20:10に更新予定です!
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