第六十四話「木村樹莉という人間」
俺の人生に、『熱』はなかった。
絵を描けば表彰され、走れば表彰され、学べば表彰された。
何事も、容易だった。
努力した記憶がない、というわけじゃない。
ただ、どれも思ったより早く手に届いた。
それが、なんだか虚しかった。
上手く行かないことを人と共有できない。
だから、俺はいつも適度なところで止まった。
本気を出す必要がなかった。
—
一度だけ、そうじゃない時期があった。
中学の頃、友人に誘われてテニス部に入った。
特に理由はなかった。
あいつが楽しそうだったから、それだけだった。
明るいやつだった。
笑うと顔全体が動くような、そういう笑い方をする男だった。
俺は初心者だったが、すぐにコツを掴んだ。
気づけば、誰よりもそれらしくできるようになっていた。
大会のメンバーが発表された日、あいつと並んで帰った。
あいつの名前は、そこになかった。
俺の名前は、あった。
しばらく、二人とも黙って歩いた。
夕方の住宅街は静かだった。
「お前はすごいよな。」
あいつが言った。
笑っていた。
でも、その日だけ、目が笑っていなかった。
「んなことないって。たまたまだよ。」
「はは。お前はそう言うよな~。」
「次があるって。練習付き合うぜ?」
「……お前に言われると、きついわ。」
「ん?」
「……なんでもねーよ!またな!」
家に帰ってから、あいつが泣いたのかどうかは知らない。
でも、泣いたかもしれないと思った。
俺は翌週、部活を辞めた。
顧問には「向いていなかった」と言った。
嘘だった。
——適度にこなし、適度に適当に。
それが、俺の人生の基本になった。
—
大学を出て、制作会社に入った。
特に理由はない。
創作という観点で見れば、競争環境が曖昧になる。
そんなイメージだけで選んだ道だった。
でも、組織というものに入れば競争はあった。
入社して二年目、上司に呼ばれた。
「木村。お前は器用だな。」
褒め言葉だった。
たぶん、本心だった。
「ありがとうございます!」
本心から嬉しそうに、言葉を返す。
そのまま、照れる表情を作り俯いた。
「あ、小塚さん。じゃあ今度、飯奢ってくださいよ。」
「お前は、すぐ調子に乗るな……。」
「……ん~。分かりました!じゃあ割り勘でいいですよ。小塚さんと、飯行きたいだけなんで。」
「はは。いいよ!奢ってやるよ。」
何も感じなかった。
嬉しくも、誇らしくもなかった。
ただ、そうですか、と思った。
俺は何かを諦めた。
そこからは、出世コースだった。
人の行えないことを、短期間で結果を出す。
ただ、それだけだった。
熱を持たずに、それだけはできた。
—
二十七歳の春、得意先への出向を命じられた。
先方の社内に出向部隊のチームを作り、関係を盤石にしろとのお達しだった。
——その会社で、明里に出会った。
同じ会社ではあったが、出向社員だったために話したことはなかった。
最初に見かけたのは、会議室の前だった。
分厚い資料を抱えて、廊下を小走りで歩いていた。
会議室の扉を開けて、中に入っていった。
「し、失礼しました!」
そんな言葉と共に出てきた。
部屋を間違えたらしかった。
彼女は、お世辞にも世渡りが上手いタイプではなかった。
何かをやれば失敗し、反省し、落ち込んだ。
ある日、給湯室で彼女を見かけた。
壁にもたれて、天井を見上げていた。
俺も同席していた会議で、プレゼンに失敗していた。
「大丈夫か?」
声をかけると、彼女はこちらを向いた。
「あ、木村さん。……見てました?」
「……いや、僕もその会議いたんだけど?」
「うわ、最悪。」
「……言い方あるよな?」
彼女は、笑った。
「でも、まぁ。しょうがない。次、頑張るしかないですよね!」
「……プレゼンする時は、質問に対する回答も用意しておいた方がいい。」
「え?」
「頑張ってね。」
「木村さん。後で改善点チャットで下さい。」
「……厚かましくない?」
「お願いしますね~!」
それだけ言って、コーヒーを持って給湯室を出ていった。
俺はしばらく、そこに立っていた。
落ち込んで、でも前を向く。
それが、彼女にとって当たり前のことらしかった。
目の前のことに、全力だった。
そこには、確かに『熱』があった。
俺は、浅はかにも彼女に惹かれた。
彼女に近づけば、自分も『熱』を持てるのではないかと。
この世界を楽しめるのではないかと。
下心のある動機だったと思う。
今でも、そう思う。
—
秋の終わりの帰り道だった。
会社を出たところで、明里が隣に並んだ。
駅が同じ方向だと、その頃には知っていた。
「ねえ、聞いてよ。」
明里が歩きながら言った。
「あの、腹出タヌキ野郎。セクハラだよね?」
「あぁ~。木曽課長?」
「そう!本当、嫌だ!」
息を吸った。
「それとなく部長に言っておこうか?今度飲むし。あと人事の奥谷さんにも——」
「樹莉。」
「うん?」
「あなた、マジでやるから。止めてね?」
「……なんでだよ?」
「話、聞いてほしいだけだから!」
明里が、少しだけ口を尖らせた。
俺は、少しだけ笑った。
「……分かった。聞く。」
「ありがとう。それだけでいいから。」
明里が、また喋り始めた。
木曽課長がいかにダメな人間か、という話だった。
長かった。
でも、飽きなかった。
—
彼女の楽しんだものが、俺には楽しく映った。
彼女を悲しませるものを、憎むことができた。
彼女に出会ったことで、自分の体に血が通った気がした。
愛するという感情を知れた。
人は、尊ぶべきものだと感じた。
そうして俺は、人間になった。
——帰りたい。
俺を俺にしてくれた、彼女の元へ。
やっと手に入れたこの感情を、手放したくない。
それだけを、ずっと思っていた。
今も、思っている。
第六十四話、お読みいただきありがとうございました!
今回は、木村樹莉という人間を少しだけ掘り下げる回でした。
冷笑系というか、寂しい奴というか。
明里に出会えてよかったね。
明日も20:10に更新予定です!
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