第一話「召喚実験?」
「ねえ、名前どうしよっか?」
朝食を食べ終えた頃。
明里が、僕に尋ねた。
お腹をさすりながら、お茶をすすっている。
「う~ん。明るいって文字は入れたいんだけどな~。」
「はは。ずっと言ってるよね、それ。」
「できれば、顔見てから決めたいんだよな。」
「そうは言っても、候補はいっぱい欲しいよね?」
「僕も、そう思ってる。」
「……じゃあ、決めないとね。」
「はい。」
二人で笑った。
もう何度目かわからない、同じ会話だった。
候補は、いくつも出た。
でも、どれもまだ、娘の名前という感じがしなかった。
まだ会ったことのない誰かの名前を決める。
それが、どうにもそわそわした。
——もうすぐ、娘が生まれる。
それが、ここ最近の僕の楽しみだった。
「じゃあ、行ってくるね。」
「あ、もうそんな時間か。」
「うん。ちょっと急がないと。」
「やっぱり、僕も一緒に……。」
「仕事しなさい。お父さん。」
「……はい。」
明里が立ち上がる。
検診の日だった。
「じゃあ、気をつけてな?車とか、人とか、あ、あと……。」
「心配しすぎ!これも何度目?」
「いいだろう?減るもんじゃないし。」
「あはは。ありがとう。夜ごはん、何がいい?」
「なんでもいいよ。あ、負担が少ないので!」
「なんでもって言う人に限って文句言うよね?」
……それもそうだな。
とりあえず答えた。
「肉。」
「またぁ~?」
「いやいや、昨日はラタトゥイユだったよ?」
「その前は?」
「……肉。」
「はは!ほ~ら。」
明里は笑いながら、玄関へ消えた。
「いってきま~す!」
「いってら~~。」
ドアが閉まる音がした。
部屋が静かになった。
僕は少しだけ、そのまま座っていた。
特に理由はない。
ただ、今の時間が好きだった。
——洗い物。しなきゃな。
木村樹莉。三十二歳。制作部所属のリモートワーク勤務。
趣味と言えるものは特にない。
でも、人生はうまくいっている方だと思う。
仕事も、家庭も。
これといって不満がない。
平凡だと言われれば、そうかもしれない。
でも僕は、この平凡が好きだった。
自室に入り、午前の会議を二本こなした。
昼の十二時を少し回ったころ、集中がぶつりと切れた。
——眠いな。
リビングのソファに移動する。
そのまま、クッションに頭を乗せた。
春の陽光がカーテン越しに差し込んでいる。
部屋が柔らかくて、温かい。
午後の仕事まで、少し仮眠を取ろう。
——名前、どうしようかな。
最終的には、明里と決めたい。
でもやっぱり、もっと候補は必要だろう。
画数とか考えなきゃだっけ?
そんなことを考えながら、意識が落ちた。
—
気づいたら、見知らぬ天井があった。
最初の数秒、何が起きたか理解できなかった。
鉄造りの天井。
薄暗い。
空気が違う。
家じゃない。
状況が飲み込めず、心拍数が跳ね上がる。
息が浅い。
心臓の音がやけにうるさかった。
慌てて起き上がろうとして、腕が引っ張られた。
——細い管が繋がれていた。
金属と、透明な素材が組み合わさった管。
それが、壁に埋め込まれた装置へと伸びている。
「——っ、なんだこれ?」
引き剥がしていいんだよな?
いや、駄目なのか?
分からない。
分からないことが、多すぎる。
落ち着け。
まずは、落ち着け。
「そのままにしておいた方がいいわ。」
「……え?」
「まだ、安定していないから。」
声がした。
振り返ると、黒い外套を着た女が立っていた。
銀に近い灰色の髪。
整った顔立ち。
けれど、その目からは何を考えているのか読み取れなかった。
声を掛けられるまで、まったく気付かなかった。
「……こ、こんにちは。」
「こんにちは。やけにお行儀がいいのね。」
「は、はぁ……。」
お行儀がいいってなんだ。
挨拶は日本人の基本だよな?
「……いくつか、質問をしても?」
「冷静なのね。どうぞ。」
「ここは、どこでしょうか?」
「私の魔術工房よ。」
一瞬面をくらった。
もしかして、おかしな人に拉致された?
できるだけ刺激しないように、情報を聞き出さないと。
「えっと。なぜ僕は、ここにいるんでしょうか?」
「……そうね。」
女は少し間を置いた。
なぜか、少しだけ体が震えている。
細い体つき。
落ち着いた立ち姿。
それなのに、その震えだけが、この部屋の異様さから浮いて見えた。
「あなたの住んでいる世界とは『別の世界』よ。」
——別の、世界。
その言葉が、頭の中に落ちてきた。
落ちたまま、しばらく動かなかった。
何言ってるんだ?
質の悪いイタズラだよな?
「冗談、ですよね?」
「違うわ。」
違う、と言われた。
それだけだった。
言い訳も説明も補足もなく、ただ「違う」と言われた。
先程から、熱くもないのに汗が止まらない。
「——なぜ?」
そんな言葉しか絞りだせなかった。
何もかも理解できない。
ただこの状況の理由を、尋ねることしかできなかった。
「……ごめんなさい。混乱するのも無理はないわね。」
「……。」
「きちんと説明するから、冷静に、ね?」
彼女の表情から、感情は読み取れない。
ただ、その言葉にはこちらに寄り添う誠実さを感じた。
少なくとも、悪い人ではない。
そう思った。
いや、そう思うしかなかった。
「ふぅ~~~~。」
息を吐き出す。
落ち着け。
少なくとも、この人から敵意は感じない。
とにかく、情報を整理しないと。
「……分かりました。」
「えぇ。一つずつ、教えるわ。」
「ここが別の世界だとして、なぜ僕がここに?」
「召喚実験の途中で、エラーが起きてしまったの。」
「……エラー?」
「えぇ。あなたを呼ぶつもりはなかった。」
なぜ召喚実験を?
手違いで、人間を召喚できるのか?
疑問は尽きない。
でも、何よりも先に確認したいことがあった。
「僕は、帰れますか?」
女が、かすかに目を伏せた。
「ごめんなさい。すぐには無理。」
「……そんな!」
「手がかりが、何一つないの。」
その言葉が、ゆっくりと胸の中に沈んでいった。
——もうすぐ、娘が生まれる。
明里が待っている。
検診から帰ってきたら、部屋に誰もいない。
夜ごはんを作って、待っても来ない。
電話をかけても、繋がらない。
娘の名前も、まだ決めていない。
父親になる準備をしていた。
それなのに、父親になる瞬間に、僕だけがそこにいない。
「……家族がいるんです。娘も生まれる。」
「……そう。家族が……。」
「すぐに、帰らないと。」
「ごめんなさい。それも、わからない。」
「——っ。」
思ったより声が出なかった。
言葉が見つからない。
ただ、胸の奥に焦燥感だけが積もっていく。
女はそれを見ていた。
その表情には、どこか哀れみと同情を感じさせる。
「まずは、自己紹介かしらね?」
「……え?」
「私は、エルナ・クロイツ。魔法使いよ。」
女は、静かにそう言った。
「……。」
叫んだところで、帰れるわけじゃない。
泣いたところで、明里に声が届くわけでもない。
焦っても仕方がない。
まずは今、目標に向けてできることを探す。
それしか、ない。
「はじめまして。僕は木村樹莉。え~。サラリーマンです。妻子持ちです。」
「……そう。」
少しだけ、彼女の表情が揺れた。
間違えて召喚してしまったことへの罪悪感だろうか。
やはり、悪い人ではなさそうだ。
「キムラ・ジュディね。よろしく。」
「いや、樹莉です。」
「……?ジュリィ?」
…...うまく、発音できないのか?
異国の見た目でもあるし、難しいのかな?
でも、日本語は通じているし。
どうにも不思議だ。
「ジュディでいいです。よろしくお願いします。えっと、クロイツさん?」
「ふふ。『でいい』って何よ。あなたの名前でしょ?」
「まぁ、はい。」
「それと、エルナでいいわ。」
「エルナ?」
「そう、エルナ。」
——よろしくね。
突如、管に繋がれた機械が音をあげた。
元を辿れば、僕の体に繋がっている。
「よし。一応、体に異常はなさそうね。」
「検査を、していたんですか?」
「ええ。もう大丈夫。それ外していいわよ。」
「何から何まで、ありがとうございます。」
彼女は少しだけ笑った。
「何言ってるの。元々は私のせいなのよ?」
「……。」
「恨まれることはあれど、感謝されるなんておかしな話ね」
「……それも、そうですね。」
彼女は、この状況を作った張本人。
感謝するのも、やはり変か。
でも彼女は、僕を呼んだのは失敗だったと言った。
なら、放っておくことだってできたはずだ。
その誠実さに対しては、感謝してもバチは当たらないと思った。
「それと、敬語もいらないわ。」
「え、なんでです?」
「なんかむず痒いのよ。あなたの敬語。」
——失礼だ。
これでも、敬語は使い慣れている。
……と思う。
—
しばらくして、屋上へ続く階段へ案内された。
まずは、この街を見よう。
帰るにしても、『ここがどこなのか』を知らないと。
先程の部屋や、今登っている階段。
魔法や魔術という単語が出てくる割には、近代的な印象を受ける。
建物は石造りではなく鉄製。
電気も通っていたな。
ただ、日本とは明確に違う空気感がある。
外に出るまでもなく、ここは違う場所だという確信があった。
「この扉よ。ここから、ひとまず外の景色が見れるわ。」
エルナが、鉄製の扉を開けた。
——絶景というには、あまりに現代的だった。
そこには、ネオンに光る夜の街が広がっていた。
石と鉄と光が入り混じった、見たことのない都市。
道を行き交う人々の体に、青や緑の紋様が光っている。
空には太いパイプが幾重にも走り、その上を乗り物が音もなく滑っていた。
「望まない来訪だから不服かもしれないけど、一応言うわね。」
「えっと。何を?」
「ようこそ、異界の中央魔法都市『カルディア』へ」
エルナは、こちらを見て少しだけ笑った。
この世界への訪問を祝福するかのように。
……御免だった。
「すぐに、帰るけどね。」
「あら、そっけない。」
「娘が、生まれるんです。」
焦ってはいけない。
でも急がなければ。
この景色を見ても、心が動くだけの余裕はなかった。
「……分かってるわ。」
「……。」
「手違いで呼んだのは私のせい。責任は持つ。」
そんなエルナの顔は真剣だった。
「……ありがとう。」
「まだ、何もしてないわよ?」
「うん。でも、状況はなんとなく掴めた……と思う。」
「そう。」
「異世界にいるという実感も湧いた。」
僕は、エルナへと視線を移した。
「まずは、色々と教えていただけますか?」
「……敬語、入っているわよ。」
「っと、ごめん。帰る手がかりは掴めそうか?」
どうにも、初対面の人へのタメ口は慣れない。
社会人としての性なんだろうな。
「やれることは全てやるわ。」
「……。」
「あなたは無事に元の世界に返す。約束する。」
エルナは少しだけ、目を細めた。
笑ったのか、それとも別の何かだったのか。
——僕にはまだ、分からなかった。
ただ、彼女からは『絶対になんとかなる』という自信を感じる。
この世界に来てから、僕はまだ壊れずにいられている。
きっと最初に出会った人が、エルナだからだろう。
「よろしくお願いします。」
「だから、敬語。」
——しつこい。いいじゃないか。
明里は今頃、家に帰っているだろう。
検診はうまくいっただろうか。
夜ごはんの肉は、何にするつもりだったんだろう。
もうすぐ、娘が生まれる。
名前だって、まだ決まっていない。
——必ず帰る。
それだけを、静かに決めた。
「……。」
その横で、エルナが一瞬だけ、何かを言いかけた。
けれど、彼女はすぐに口を閉ざした。
その沈黙の意味を、僕はまだ知らなかった。




