第百四十七話「大人の飲み方」
バーの扉を開けると、煙草の匂いがした。
行きつけの店だ。
静かで薄暗くて、盗聴の類がない。
情報を扱う人間には、ありがたい店だった。
カウンターに、二人分の背中があった。
ジャスとザイン、いつもの面子だった。
ジャスが、こちらを振り返り言った。
「……遅い。」
「いやいや、時間ぴったりだろ?」
「本来大人というものは、五分前には来ているものだ。」
「……畏まった場所なら、そうするって。」
「普段から心がけろ。」
「……へいへい。」
ジャスが、ウイスキーのグラスを傾けた。
その隣で、ザインが煙を吐く。
「ジュディ。相変わらず、辛気臭い顔だな。」
「うっさ。」
「まぁ、座れ。」
俺は、二人の間に腰を下ろした。
煙草に火をつけ、酒を注文する。
「スピリタス。少し水で割ってくれ。」
「……ジュディ。」
ザインが、怪訝な顔で俺を呼び止めた。
「あんだよ?」
「いつもは、モスコミュールじゃなかったか?」
「……そうだったか?」
「あぁ。」
まぁ、酒なんて気分によって変わるもんだ。
三人分の煙が、天井へ昇っていった。
—
「お前の状況と、ダン・ベルンという男の件は聞いている。」
先に切り出したのは、ザインだった。
前置きも、気遣いもない。
こいつは、そういう男だ。
「……そう、か。」
「その上で、聞け。MANAの通信網で得た情報だ。」
「……ハピレスに関して、何かあるか?」
「落ち着け。ギャングに関しては裏回線を利用することが多い。正直、MANAでも全ては追いきれん。」
「……なるほどな。そこはガレスの領分か。」
「あぁ。」
ザインが、グラスを置いた。
「まず、アッシュガードの動向についてだ。」
「……。」
「ここ数ヶ月、バイオストーンや生活工房の研究者が消えている。」
「……消えてる?」
「恐らく、アッシュガードが拉致していると見ていい。数は多くないが、選び方が妙だ。」
俺はグラスを回した。
氷が、鳴った。
「研究者ぁ?一体なんのために。」
「消えた研究者に関連性はない。生命科学や魔術記述。転移技術なんてものもあるな。」
「……バラバラじゃねーか。狙いが見えねぇな。」
「逆だ。各分野を幅広くということは、一つの何かを作ろうとしている可能性が高い。」
「いや、そこまで言い切るのは早計じゃねーか?」
「無作為じゃない。各分野から、必要な人間だけを拾っているように見える。」
それでも、アッシュガードの狙いは分からない。
ハピレスを引き抜き、研究者を拉致する。
……碌なことじゃないことは想像できるな。
「んで、ハピレスに関しては?」
「分かっている範囲では、拠点を動かしたらしい。」
「……動かした?」
「あぁ。ヴェーラから、カルディアへな。」
……カルディアへ。
この街に、あいつらが来ている。
「理由までは、俺も掴めなかった。」
ザインが、煙を吐いた。
「ヴェーラの地の利を捨てる意味が分からなかったからな。だが——。」
「……。」
「まさか、親玉であるバイオストーンを裏切っているとはな。」
裏切った以上、ヴェーラにはいられない。
だから、アッシュガードに近い場所へ移った。
——なるほど。
筋は、通るな。
「ザイン。」
「なんだ。」
「この情報、なんでここまで調査したんだ?」
「……MANAの利益のためだ。お前に貸しを作っておく。」
「っは。んだよそれ。」
ザインが、少しだけ黙った。
それから、面倒くさそうに言った。
「カインに、繋いでおく。手立てがあれば、連絡するさ。」
「……悪いな。」
「勘違いするな。さっきも言ったように、MANAに利があると判断したまでだ。」
「あぁ。分かってるよ。」
分かってる。
分かってるから、余計に妙な気分になるんだ。
この男は。
こういうやり方で、手を差し伸べてくる。
「……もう一つ、腑に落ちないことがある。」
「なんだよ。」
「レガシーコードだ。」
俺の手が、少しだけ止まった。
「……んだよ。レガシーコードは、もうこっちで押さえてる。問題ねぇだろ?」
「あぁ。しかし、どうにも引っかかる。数が少なすぎるとは思わないか?」
「……もともと、珍しいものなんだろ?」
「あぁ。しかし、レガシーコードとは何なのか。それ自体は研究者にしかわからん。」
「……。」
「それなのに、だ。一般的には使い道もわからない代物の、数が減り続けている。」
ザインが、グラスの縁を指でなぞった。
「結果、値が跳ねた。鉄火市に流れるほどにな。ハピレスだけじゃない。他にも、欲しがっている連中がいる。」
「……だから、それだけ希少で珍しいからだろ?」
「それは、なぜだ?」
「……俺が知るわけねぇだろ。」
ザインが、言葉を選んだ。
「使えるかどうかも分からない。研究者がこぞって求め、数を減らしている。」
「……何が言いてぇんだ?」
「上手く、言語化はできない。勘だ。」
そう言って、ザインはビールを呷った。
「——どうにも、きな臭い。」
それ以上は、言わなかった。
言えるほど、掴んでいないのだろう。
俺は、煙草の灰を落とした。
腹の底に、小さな引っかかりだけが残った。
—
しばらくして、店の扉が開いた。
葉巻の匂いが、鼻をつく。
「——遅くなった。」
低い声だった。
振り返って、俺は少しだけ固まった。
そこに、ガレスが立っていた。
黒く、大きい。
仕立ての良いコート。
口には、葉巻。
その姿を見て、ジャスの目がわずかに開いた。
ザインは、露骨に眉を上げている。
俺は何度か直接会っているが、二人にとっては意外だったのだろう。
ジャスが、口を開いた。
「……でかいな。」
「感想が、それか。」
「いや、思ってた通りではある。いや、思ってた以上か。」
「ふん。」
ガレスが、俺の隣に腰を下ろした。
その巨体で、椅子が軋む。
「初めまして、だな。ジャス・サイン。ザイン・ヴァルト。」
ジャスが、煙をくゆらせてガレスを見た。
「……あぁ。こうして直接会えるとはな。」
「なんだ、意外だったか?」
「用心深いと、噂で聞いていたからな。現に、今までもリモートだっただろう?」
「信用できる相手との会合ともなれば、こちらも誠意を見せる必要がある。」
ジャスが、わずかに口の端を上げた。
ザインは、値踏みするような目でガレスを見ていた。
「……いいのか。」
「何がだ。」
「MANAは、情報屋にとっては警戒すべき企業だろう?その役員の前に、面を晒して酒を飲むのか。」
ザインの言葉に、ガレスは葉巻をゆっくり吸った。
「何も手立てもなく、直接は会わんさ。」
「……。」
「心配ない。」
それだけ、だった。
何をどう備えているのかは、言わない。
言わないが、備えていないわけがない。
——この男は、そういう男だ。
用心は、仕事のうち。
ガレスが、グラスを受け取った。
琥珀色の酒が、静かに揺れた。
—
誰も、乾杯とは言わなかった。
「……ダン・ベルンに。」
ガレスが、静かに言った。
グラスを、軽く持ち上げる。
「勇ましい男だった。」
「……そんなに深い付き合いだったのか?」
「何度か仕事を受けていた。元々はお前の紹介だろう?信用できる男だった。」
「……あぁ。」
「この稼業で、信用できるというのは。」
ガレスが、一口飲んだ。
「一番、高い評価だ。」
俺は、グラスを見つめた。
琥珀の中で、氷が溶けていく。
ジャスが、煙草に火をつけた。
「……間に合わなかった。」
「……ジャス。」
「ハピレスの動きは、事前に掴んでいた。だが、動けなかった。」
「……。」
「政府は、ギャング一つに手を出すのにも稟議がいる。今回も、ゼノの連絡を受けて初めて行動に移せた。」
ジャスの声は、静かだった。
静かすぎて、逆に分かった。
——こいつは、こいつで背負っている。
「お前のせいじゃねぇだろ。俺が勝手したせいでもある。」
「そういう話ではない。」
「……。」
「……また、私は動けなかった。その事実だけがある。」
言い訳を、しない男だ。
だから、俺はこいつが嫌いじゃない。
ザインが、ビールを置いた。
「……死んだ男の話は、そこまでだ。」
「おい、ザイン。」
「悼むのは大切だ。そいつのことは知らないが、そいつは、男三人がしょぼくれているのを喜ぶような男だったのか?」
「……それは。」
「ダン・ベルンは、もう飲めん。だが、俺達はそいつを思って飲める。」
「……。」
「思い方を、間違えるな。それだけの話だ。」
——ひでぇ言い草だ。
でも。
たぶん、こいつなりの悼み方だった。
「……あぁ。そう、かもな。」
俺は、グラスを空けた。
—
「今後の方針を、言っておく。」
気づけば、口に出していた。
「俺は、生き残るために動く。それに加えて——ハピレスを、潰す。」
誰も、驚かなかった。
誰も、止めなかった。
ジャスが煙草を吸う。
ザインがグラスを傾ける。
ガレスが、葉巻の煙を吐いた。
大人ってのは、こういうもんらしい。
綺麗事を言わない。
やめろとも、言わない。
「ジュディ。」
ガレスが、口を開いた。
「潰すのは、構わん。」
「……あぁ。」
「だが、潰し方を間違えるな。」
低い声だった。
説教でも、忠告でもない。
ただ、事実を置くような声だった。
「怒りで動く人間は、必ず付け入る隙ができる。」
「……。」
「隙を作った人間から死ぬのが、この世界だ。」
「……ヘマを打つ気はねぇよ。」
「あぁ。判断が正しい奴は、長生きする。忘れるな。」
——聞き飽きた口癖だ。
でも、今日は。
やけに、腹に落ちた。
「……分かってる。」
「本当にか。」
「……分かってるつもりだ。」
「ふん。」
ガレスが、葉巻を灰皿に置いた。
「まぁいい。その顔なら、まだ大丈夫だ。」
「……どんな顔だよ。」
「瞳が怒りで曇っていない。視野はまだ、開けているようだな。」
——そりゃ、どうも。
—
「……で、だ。」
ガレスが、氷を鳴らした。
「潰すなら、段取りがいる。」
「……協力してくれんのかよ?」
「無論だ。」
ガレスの表情が、いつもより硬かった。
感情が目に見える。
珍しいな。
「ガレス。」
「何だ。」
「……キレてるか?もしかして。」
「……あぁ。かなり、な。」
ガレスが、酒を仰いだ。
そのまま、言葉を続ける。
「私の友人を、コケにした。」
「……。」
「狂い方にもルールがある。話を進めるぞ。」
——ここからが、本題だ。
四人の顔つきが、少しだけ変わった。
「まず、私だ。」
ガレスが、指を一本立てた。
「ハピレスの情報は、私が一番握っている。拠点の調査を、本格的に進める。」
「……頼む。報酬は弾む。」
「あぁ。しかし、今回は私個人の私怨もある。料金は追って相談しよう。」
「……あんた、ほんとブレねぇな。」
ザインが、続いた。
「MANAは引き続き、通信技術の掌握で調査を続けよう。」
「……問題ねぇのか?」
「カインに話は通すさ。ハピレスとアッシュガードの間に、必ず線がある。バイオストーンを裏切った以上、どこかで必ず繋がっているはずだ。」
「……その線を、辿るってことか。」
「あぁ。証拠が取れれば、企業として動く名分が立つ。」
ジャスが、灰を落とした。
「政府も、動く。」
「……あんた、動けねぇんじゃなかったのか?」
「ハピレスの捕獲指示は、すでに出ている。」
「……は?」
「ゼノから伝達があった。ハピレスは、拠点をカルディアに移している。もうこっちの領分だろう。」
——なるほど。
あいつらは、この街に来た時点で政府の敵になった。
「私も、前線に出る。お前と共に動く。」
「……いいのかよ。」
「いいも何もない。許可が降りている以上、私が止まる道理はもうないさ。」
ジャスが、静かに言った。
「——罪のない人が、死んでいる。」
「……。」
「政府の本分を果たすさ。」
それ以上の言葉は、いらなかった。
三人の視線が、俺に向いた。
「……俺は、足と囮だ。」
「ほう。」
「あいつらの目的は見えねぇ。でも、少なからず俺も関係があるはずだ。動けば、必ずぶつかる。」
「……そうだな。」
「なら、ぶつかってやるよ。」
俺は、グラスを置いた。
「それと、ロイドに接触する。バイオストーン側の状況も、探る。」
「……返事は、来ているのか。」
「いや。まだだ。」
——送った暗号に、返事はない。
無視されているのか、届いていないのか。
それすら、分からない。
「気長に待つさ。ハピレスを潰す準備をしながらな。」
そう言って、俺は煙草をもみ消した。
—
店を出たのは、日付が変わる頃だった。
「進展があれば、連絡する。」
ザインが、そう言って背を向けた。
ジャスも、短く頷いて歩き出す。
ガレスは、最後に葉巻を咥え直した。
「ジュディ。」
「なんだよ。」
「直接こうして飲むのも、悪くないな。」
「……あぁ。そうだな。」
「また、飲もう。」
「……あぁ。」
そう言って、ガレスは黒塗りの車へ消えた。
——また、飲もう。
その言葉が、妙に耳に残った。
—
工房への帰り道。
——ヴンッ。
視界の端に、通信が入った。
発信元不明の、暗号回線。
心臓が、跳ねた。
俺は足を止め、街灯の下で文面を開く。
短い、一文だった。
『明日の午後。指定の座標にて待て。』
——ロイド・カーター。
やっと、繋がった。
こちらの連絡は、届いていたらしい。
夜の空気を、深く吸い込む。
煙草の味が、まだ舌に残っていた。
第百四十七話、お読みいただきありがとうございました。
大人だけの、飲み回でした。
誰も、ジュディを止めませんでしたね。
綺麗事を言わないのが、この人たちの優しさなんだと思います。
ガレスが、ついにバーに顔を出しましたね。
「何も手立てもなく、直接は会わんさ」——用心深い男です。
そして、ロイドから返事。
明日の午後。指定の座標。
間章は、ここまで。
次回から、第四章です。
明日も20:10、続きます。
よろしくお願いします。




