第百四十五話「私の研究」
カルディアの朝は、いつも通りだった。
人の流れ。露店の声。
何も知らない、平和な街。
俺は、アルカナ本社へ向かって歩いていた。
『……マジで、行くのかよ。』
(んだよ。ビビってんのか?)
『ビビるかよ。バカかって聞いてんだ。あそこは、お前を閉じ込めた連中だぜ?』
(んなこと、分かってるよ。)
『分かってて、のこのこ戻るのかよ。やっぱバカだなお前。』
アルトの声には、はっきりと不服が滲んでいた。
(……お前の言いたいことは、分かるよ。)
『なら——。』
(でもな。ハピレスを確実に潰すには、アルカナの協力があるに越したことはねぇ。)
『……ちっ。』
(あいつらには情報も、金も、後ろ盾もいる。俺とお前だけで潰せる相手じゃねぇだろ?)
——ハピレスは、ギャングだ。
組織があって、金がある。
アッシュガードも絡んでるとなれば、相当厄介なはずだ。
勢いだけで殴り込んでも、潰せやしない。
『……気に食わねぇ。』
(そこは、同感だな。)
『閉じ込めた奴らに、わざわざ頭を下げに行くってか。』
(……頭を、下げる気はねぇよ。)
『なら、どうすんだ?』
(……交渉しに、行くんだよ。)
エルド経由で、すでにアポは取ってある。
今後の方針を、話すために。
そして、もう一つ。
——なんで、俺を閉じ込めた。
その理由を、ゼノの口から聞く。
その上で、二度と俺の身柄を縛るなと釘を刺す。
それが、今日の目的だった。
『……っち。勝手にしろ。』
(あぁ。勝手にするさ。)
—
アルカナ本社。
見慣れた、白い廊下。
社長室は、最奥にある。
だが、そこへ行くにはネルの第七研究室を通らなければならない。
——いつも通り、面倒な構造だ。
俺は、研究室の扉を開けた。
端末の並ぶ、雑然とした部屋。
その端に、ネルがいた。
「……ジュディ。」
「……。」
俺は、答えなかった。
まっすぐ、社長室の扉へ向かう。
「ジュディ、待って!」
ネルが、慌てて駆け寄ってきた。
俺の、服の端を掴んだ。
「なんだよ?」
「……は、話を。」
「話?」
「……う、うん。」
「俺は、お前に今用はない。それに、最初に話を拒絶したのはそっちだろ?」
「……っ。」
ネルが、こちらを見上げた。
いつもの、へらへらした顔じゃない。
「そ、それでも。一言だけ。」
「なら、さっさと言えよ。」
「……めん。」
「あ?聞こえねーよ。」
「ごめん、なさい。」
ネルは、俺の服を掴んだまま震えていた。
それが、余計に俺を苛立たせる。
そんな顔するくらいなら。
なんで。
なんで、あの時。
「……それは、なんの謝罪だよ。」
「ジュディの、気持ちを、踏みにじった。」
「っは。そんなの、俺だけじゃねーだろ。」
「今まで、散々他人を踏みにじって来たんだろ?研究って名目でよ。」
「……そ、れは。」
ネルが、気まずそうに目を反らした。
……ふざけんじゃねぇ。
「俺は、ルイのことを忘れてねーぞ。」
「……。」
「そんで——お前らは、俺を閉じ込めた。その間に、ダンさんは死んだ。」
「……っ。」
「お前が殺したとは、言わねぇ。けど、関係なくもねぇだろ?」
「……。」
「だんまりかよ?話すことねーなら、もう行くぜ?」
俺は、ネルの手を掴んで引き剥がそうとした。
ネルの顔が、少しだけ赤くなる。
「……っ。」
「この手、邪魔だ。」
「ご、ごめ……。」
「まぁ。困るよな?大事な被験者に嫌われちゃあ、研究に支障が出るもんな。」
「っ。ち、ちが……。」
「違わねぇだろ!!!!」
思わず、叫んでいた。
叫ばずには、いられなかった。
研究室に、俺の声が反響する。
その反響が消えても、ネルは何も言わなかった。
ただ、俺の服を握り続けている。
——ネルは。
今は、憎むべき人のはずだ。
そのはずなのに。
この顔を見ると、許しそうになる。
それが、余計に俺を苛立たせた。
「……手、離せよ。ネル。」
「……ぐず。」
ネルの瞳から、涙がこぼれた。
——ちくしょう。
「わ、わからないんだ。」
「……泣くなよ。」
「私は、今、なんで泣いてるかも、わからない。」
「……。」
「わからないんだよぉ。」
俺は、動けなくなった。
泣いてる理由も分からずに、泣く。
こんな女を突き放すなんて、できるわけがない。
——ネルは、天才だ。
世界の理を数式で解く、そういう女だ。
なのに。
自分の涙ひとつ、名前をつけられずにいる。
「……くそっ。」
ネルが泣き止むまで。
俺は、ただ立ち尽くしていた。
—
「……落ち着いたか?」
「……はぁ。初めての、経験だ。」
「あっそ。」
机の前。
二人で並んで、椅子に座っていた。
ネルは、まだ心を痛めている。
たぶん、俺のために。
——許す気は、ない。
でも、切り捨てる気もなかった。
半分は、打算だ。
こいつがいないと、俺は俺の壊れ方すら分からない。
そして、残りの半分は。
……言葉には、したくねぇな。
「ネル。」
「……何?」
「……許したわけじゃ、ねぇ。」
「……うん。」
「でも、診察は続けろ。」
その言葉で、ネルは目を見開いた。
そのまま、こちらをじっと見つめる。
「……いい、のか?」
「しょうがねぇだろ。お前が見てくれねぇと、俺は俺のこともわからねぇ。」
「……。」
「俺には、お前が必要だ。だから、二度とすんな。」
「……っ。」
「返事は?」
「……うん。……本当に、すまなかった。」
沈黙が、落ちた。
俺は、ネルの頭をぐりぐりと撫でた。
「わ。」
「じゃ、行くわ。」
腰を上げようとした、その時。
「……ジュディ。」
「ん?」
「人は、温かいな。」
「……まぁ、生きてるからな。」
「そうじゃない。」
「あ?」
「心が、人にはあるんだな。」
「……。」
「それが、温かい。」
——感情の名前も知らないくせに。
こいつは今、その温度だけを確かに感じている。
「……はぁ。ネル、ついでにちょっと診てくんないか?」
「……いいのか?」
「まぁ、せっかく来たしな。」
ネルが、少しだけ目を丸くした。
それから、いつもの手つきで俺の右腕に端末をかざす。
データが、流れていく。
ネルの目が、すっと細くなった。
「……身体の負荷が、想定より重いね。」
「あぁ?」
「青薬の残滓が、まだ神経系に残ってる。」
「……そりゃ、まずいよな?」
「短期間での再使用は、止めたほうがいいね。」
「……。」
「……でも。ジュディは、多分使うんだろうなぁ。」
否定は、できなかった。
使うに決まっている。
ネルは、それ以上言わなかった。
端末をもう一度、俺の額にかざした。
「……アルトの反応も、少し濃いね。」
「……濃い?」
「二つの意識が、薄く混ざってる。」
——薄く、混ざってる。
ふと。昨日、煙草を吸ったことを思い出す。
親指と、薬指。
あの吸い方が、なんとなく馴染んだ。
「……気を、つける。」
「うん。……気をつけて。」
ネルが、端末を置いた。
それから、まっすぐ俺を見た。
「ジュディ。」
「ん?」
「死なないでくれ。」
「……。」
「私の、被験者なんだから。」
わざわざ、念押しでそんなことを言ってくる。
「……ちったぁ、信用しろよ。」
「うん。でも、それだけじゃない。」
「……じゃあ、なんだよ?」
「私自身の、研究のためにも、ジュディに居てほしい。」
「……意味が、わかんねぇんだけど。」
「……心の、研究だ。」
——心の、研究。
よく分からねぇ。
でも、悪い響きじゃなかった。
「……おし。」
俺は、立ち上がった。
「そんじゃ、行ってくるわ。」
「ゼノ社長のところか?」
「あぁ。」
「……ジュディ。」
「ん?」
「怒るのはいいけど、態度は気をつけろよぉ?」
「……今さらだろ。」
社長室の扉に手をかける。
——さて。
ここからが、本題だ。
第百四十五話、お読みいただきありがとうございました。
ネルの回でした。
ジュディ、今日はかなり怒っていましたね。
でも、怒りきれませんでした。
ネルのあの顔を見ると、どうにも。
ネルは、自分がなんで泣いているのかまだ分かりません。
感情の名前を、知らないから。
でも、温かいということだけは分かったみたいです。
「心の、研究」。
はて、何を研究する気なんでしょうね。
さて、ジュディはこの後ゼノのところへ。
態度、と言われても。今さら、なんですよね。
明日も20:10、続きます。
よろしくお願いします。




