第百四十四話「呼吸と罪悪感」
工房に着いた。
空はもう、白んでいた。
朝の匂いがする。
ベルン家から、ずっと歩いてきた。
バイクを飛ばす気にも、なれなかった。
——二人は、まだ寝てるか。
そう思って、扉に手をかけた。
できるだけ、静かに。
物音を立てないように、リビングへ向かう。
息を殺すみたいに。
「……。」
リビングの扉を、開けた。
そのつもりだった。
——ガチャ。
先に、洗面所の扉が開いた。
サヤが、歯ブラシを咥えたまま顔を出す。
「あ、ほんくら。」
「……。」
「おはえり。」
「あぁ。ただいま。」
「ちょっろ。まっへへ。」
言うだけ言って、サヤはまた洗面所へ引っ込んだ。
口を、濯いでいるらしい。
しばらくして、戻ってくる。
「遅くなんなら、連絡しろよな。」
「……ごめんな。」
「あ。」
「……ん?」
サヤの視線が、俺の左肩で止まった。
そのまま、駆け寄ってくる。
「……何があった?」
「……。」
「はぁ~。もうこれ何?悪癖なの?」
「ご、……ごめ。」
「風呂。」
「へ?」
「とりあえず、風呂入ってこいよ。」
「……。」
「色々落ち着いたら、話聞かせろ。」
背中を押されて、洗面所へ押し込まれる。
抵抗する気力も、なかった。
——罪悪感が、胸を抉った。
サヤは、今は何も聞かなかった。
聞かないまま、俺を風呂に放り込もうとしている。
その気遣いが、今は少しだけ痛い。
俺の背中を押しながら、サヤがリビングへ声を張った。
「カイラ~~。」
「はいはい。なんざんしょ。」
「朝飯。ちょっと奮発しよう。」
「……どうしたのでしょうか?」
「ジュディ。凹んでる。」
「ガッテン承知でございます。」
何か、カイラの様子が変だった。
なんというか、言語がおかしい。
俺は、洗面所の入口で足を止めた。
「カイラ。」
「なぁに?」
「なんで、敬語なんだ?」
「……サヤのお気に入りのコップをね。」
「あぁ。」
「勝手に、改造しちゃった。」
「……。」
「そんで、めっちゃ怒られたの。」
どんな改造をしたのか。
まぁ、無断ならそりゃ怒られる。
「……ちなみに、なんで改造したんだ?」
「疼いて。」
「……。」
——なんだよ、それ。
なんだか、力が抜けた。
その場にしゃがみこむ。
やっと、息ができた気がした。
くだらない。
本当に、くだらないやりとりだ。
なのに、詰まっていたものが少しだけ緩んだ。
——でも。
その拍子に、思い出した。
ベルン家の食卓を。
アイラの料理を。リアの笑い声を。
あの家にも、こういう時間があった。
くだらなくて、あたたかくて。
なんでもない時間が、あったんだ。
——それを、俺が奪った。
「……っ。」
呼吸が、また浅くなる。
その時。
カイラとサヤの手が、俺の背中に触れた。
「んはは。凹んでるジュディ。久々。」
「ね?珍しいよね?」
二人の手は、あたたかかった。
その温度が、なぜだか余計に苦しかった。
—
風呂に浸かった。
廃工場の、煙の匂い。
血と、油の匂い。
こびりついていたものが、少しずつ湯に溶けていく。
——落ちる。
匂いは、落ちる。
なのに。
胸の奥のものだけは、どうやっても落ちなかった。
「……。」
湯に顔の半分まで沈める。
呼吸が、水面で泡になった。
——俺は、帰ってきてしまった。
こうして、あたたかい湯に浸かっている。
くだらない話で、息を継いでいる。
「……くそ。」
ダンは。
——ダンは、帰れなかった。
それだけのことが。
どうしようもなく、重かった。
「……くそったれっ。」
—
朝食は、ハンバーグと目玉焼きだった。
サヤが、作ってくれたらしい。
湯気が立っている。
生きている家の、朝の飯だ。
美味いはずだった。
なのに、味がしない。
舌が、どうかしたわけじゃない。
たぶん、俺の方がどうかしている。
それでも、残したくなかった。
一口ずつ、時間をかけて腹に収めた。
食後の片付けを済ませて。
俺は二人に、これまでのことを話した。
どこから話せばいいのか、分からなかった。
エミリのこと。
レガシーコードのこと。
ロイドに繋ごうとしたこと。
そのために、ダンを頼ったこと。
順番も、うまく整わない。
それでも、二人は黙って聞いてくれた。
そして。
——ダンが、死んだこと。
そこまで話して、俺は口を閉じた。
二人は、しばらく何も言わなかった。
—
しばらくして、カイラが口を開いた。
「……一つだけ、私に言えるとしたら。」
「……。」
「ジュディは、悪くない。」
「……いや。それは……。」
「悪く、ないよ。」
まっすぐな目だった。
その優しさが、俺にはうまく受け取れない。
サヤが、口の中で飴を転がした。
「いや、悪いだろ。」
「サヤ!!!」
「カイラ。甘やかしすぎんのは、違うと思う。」
「……でも!!」
「誰も悪くないなんて、言えないよ。今回のことは。」
「……。」
サヤの、言う通りだ。
俺は、その言葉にどこか救われていた。
慰められるより、よっぽど。
サヤが、こちらを見た。
「ジュディ。」
「……。」
「話すのが、遅い。」
「……ごめん。」
「でも、今回のことは正直。事前に話されても私にできることは少なかったと思う。」
「……。」
「とりあえず、今日は休みなよ。」
そう言って、サヤが立ち上がった。
「私は、アイラさんのとこに行くわ。」
「……サヤ、それは……。」
「様子、見てくるだけだから。」
そう言いながら、サヤはそそくさと上着を手にとった。
上着を羽織りながら、こちらに声をかける。
「大丈夫。門前払いされたら、帰るよ。」
「……でも。」
「来るなって言われてんのは、ジュディでしょ?私は言われてない。」
「……それは、屁理屈じゃねーか?」
「うっさいな。……何ができるかは、わかんないけどさ。」
「……。」
「任せろよ。ジュディ。」
「……。」
「任せろ。」
——あぁ。
俺は、頷くことしかできなかった。
—
サヤが、出ていった。
カイラは、リビングに残った。
出ていく気配は、ない。
何をするでもなく、ソファに座っている。
「ジュディ。」
「……ん。」
「何かあったら、呼んでね。」
「……あぁ。」
「ほんとだよ。ちゃんと、呼ぶんだよ。」
「……分かってるよ。」
たぶん俺は、呼ばない。
それも、カイラは分かってる気がした。
でも、傍にいることを、カイラは選んでくれた。
「……カイラ。」
「ん?」
「……ありがとう。」
「どういたして。」
俺は、ベランダに出た。
煙草に火をつける。
「……ふぅ。」
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
白い煙が、ゆっくりと昇っていく。
『ジュディ。』
(うるせぇ。話しかけんな。)
『いいさ。勝手に話す。』
(……っち。)
こいつが意識の中にいるとき、俺に止める術はない。
思わず、懐の青いアンプルを指で撫でた。
『……ハピレスの件だ。』
(……なんだよ。)
『潰すんだろ?』
(あぁ。潰す。)
『……その件、協力するぜ。』
(……あ?)
——協力。
こいつの口から、その言葉が出るとは思わなかった。
返事の代わりに、煙を吐いた。
『今回の件、どうにも容認できねぇ。』
(……。)
『人を殺すなんざ、この世界では珍しくもねぇ。だがな、引っかかることがある。』
(引っかかることだぁ?)
アルトの声に、茶化す色はなかった。
それが、逆に引っかかる。
『なんで、ダンを殺す際、お前に通信を送った?』
(……俺を、誘い込むためじゃねーのか?)
『いいや。それは違う。勘だがな。』
(……。)
——あの、通信。
薄暗い部屋。ダンの耳を、ナイフで削いだ。
その後は、ネルに通信を断絶されたが……。
思い出すだけで、腹の底が冷えた。
『あいつらは、楽しんでやがった。』
(……ガロウは、そういう人間だったろ。)
『違う。ガロウは殺しそのものに快楽を感じてた。お前に映像を送ることに、愉悦は感じてねーよ。』
(お前は、いちいち遠回しじゃねーと物が言えねぇのかよ?)
『お前はもうちょい勘がいいと思ったんだがな。』
(……。)
相変わらず、鼻につく野郎だ。
でも、言いたいことはなんとなく分かった。
『お前に通信を繋いだのは、ガロウとは別の意思だ。』
(……別の、意志?)
『あれは、ただ殺しを見せたい奴のやり方じゃねぇ。』
(……。)
『人が壊れるのを、外から眺めて笑う奴のやり方だ。』
——外から、眺めて笑う。
その言い方で、一人の女の顔がよぎった。
柔らかい物腰。丁寧な言葉。
なのに、目の奥だけが笑っていなかった。
——ミゼラ・ノックス。
『……思い当たる顔が、あるみてぇだな。』
(……いや、確証はねぇ。俺も、勘だ。)
『十分だ。俺も、ミゼラが臭いとは思ってる。』
(……。)
『ガロウとは種類が違う。狂い方にも、ルールってもんがある。』
(ルールだぁ?)
俺は、煙草の灰を弾いて落とす。
なんとなく、煙草を親指と薬指で、摘んだ。
色々難癖つけちゃいるが、アルトの言いたいことは分かった。
(……単純な話。)
『……。』
(お前も、気に食わねぇってことか?)
『……あぁ。俺も、ハピレスを潰してぇ。』
(……。)
『お前の事が、どうのこうのは一旦置いておく。』
(……はっ。そうかよ。)
『潰すぞ。ハピレス。』
(言われるまでも、ねぇよ。)
煙を深く吸った。
——潰す。
その一点だけは、アルトと同じものを睨んでいた。
陽はもう、少し高くなっていた。
第百四十四話、お読みいただきありがとうございました。
第三章が終わって、間章に入りました。
ジュディ、ようやく工房へ帰ってきましたね。
でも、帰ってきてもうまく息はできません。
そういう帰宅も、あります。
カイラのコップは、たぶんもう元には戻りません。
疼いたら、しょうがないですね。
そして、アルト。
初めて、ジュディと同じ方を向きました。
仲良しとは、まだ言えませんが。
明日も20:10、続きます。
よろしくお願いします。




