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スペル・エラー ~娘が生まれるのに異世界へ召喚されたので、何があっても帰ります~  作者: とろたま愚鈍
第二部:第一章|間章

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第百十三話「気まずい診察」

アルカナ本社、第七研究室。

定期の検査だった。


「はい。右手、出して。」

「……。」


俺は、右腕のストーンウェアを差し出す。

ネルが、端末を腕にかざした。

数値を、読み取っている。


「うん。次、心音取るよ。」

「あ、あぁ。」


冷たい器具が、胸に当たる。

ネルは、何も言わない。


機械の小さな駆動音だけが、やけに大きく聞こえた。


「よし。終わり、かな。」

「……ネル?」

「何?」

「なんか、変じゃないか?」

「……何が。」


——やっぱり、変だ。


いつもなら、検査の合間に余計な軽口が飛んでくる。

「死相が出てるよぉ★」とか、「献血多めに取るからぁ★」とか。

……容易に想像できるな。


今日は、それがない。

ただ、淡々と作業をこなしている。


「いや、いつもより、静かだなって。」

「……気のせいじゃない?」

「気のせいじゃない。」

「……バカの癖に。」


それ今、関係なくねぇ?






ネルは、データを保存して、椅子を回した。

俺と、向き合う形になる。


少しだけ、間があった。


「……なんかな。」

「あ、あぁ。」

「この前から、胸がザワッとすんの。時々。」

「……ザワッと?」

「やっちまったなー、って。」


——この前。

ピンと来た。


この場所でネルが、カイラとサヤに言った。


何故俺に突っかかるのか。

甘えすぎだ、と。


「……あれ、気にしてんのか?」

「気にしてるっていうか。」


ネルが、自分の手のひらを、じっと見た。


「……ラベリングが、できなくてさ。」

「ラ、ラベリング?」

「あの時の私は、あくまでも説明役だった。」

「……あぁ。」

「なのに、私の感情を出すことを、止められなかった。」

「……。」

「いや。『止めたくなかった』が、正しいかな。」


ネルの声は、淡々としていた。

怒ってもいない。

泣いてもいない。


ただ、戸惑っていた。


「想定してなかったんだよ。自分が、あんなふうになるなんて。」

「……ネル。それは——」

「言わないで。」

「……ん?」

「まだ名前は、つけないで。お願い。」

「……。」


——名前。


たぶん、ネルはそれが何なのか、薄々分かっている。

分かっていて、名付けたくないだけだ。


「……サヤに、さ。」

「え、サヤ?」

「うん。あの子に、結構酷いこと言ってたんだな。私は。」

「……。」

「彼女の感情を、決めつけて弄んだ。その上、代用品までチラつかせた。」

「……えっと。何の話だ?」

「ジュディは、分からなくていい。私が今、理解しただけ。」


何のことかは、分からない。

でも、ネルが「酷いこと」を理解したのは、たぶん悪いことじゃない。

……と思う。


俺は、何も言わなかった。







ネルが、咳払いをした。

仕事の顔に、戻る。


「さて、検査結果だけど——」

「……ちょっと待って。心の準備を——」

「結論、上書きは進んでる。これまでの比じゃない速度で。」

「……待ってって、言ったじゃん。」

「この前の吐血も、頭痛も。一時的な不調じゃない。」

「……無視なんすね。」

「アルトが濃くなって、ジュディが薄くなってる。その影響が身体に出てる。」


俺の気持ちとは裏腹に、ネルは淡々と事実を述べる。

まるで、気持ちを押し殺しているみたいに。


なぜだろう。

それがなんだか、とても人間らしいと思った。


「A-3Rに触れてから、進みが強くなったと見ていいね。」

「……そうか。」

「でも、これはあくまでも現状のお話。」


ネルが、こちらを真っ直ぐに見つめた。

強い、決意をしている目だった。


「プロジェクト・ミラーのデータがある。手がかりは、ある。」

「……手詰まりじゃ、ないってことか。」

「うん。まだ、ゼロじゃない。」


「まだ」という言葉に、どれだけの猶予があるのか。

聞くのが、少し怖かった。






「さて。これで現状のお話は終わり。」

「……まだ、何かあんのか?」

「うん。今後のお話。」


ネルが、机から小さなケースを取り出した。

中で、二つの液体が、淡く光っていた。


透明なカートリッジの中。

青と、赤の液体が、それぞれ静かに揺れている。


「これは、お薬。ジュディの右腕のストーンウェアに、もう組み込んである。」

「……いつの間に。」

「検査中にちょいちょいっと。」

「……怖ぇよ。せめて一声掛けてよ。」

「ありがとう。」

「褒めてねぇよ。」


ネルが、青を指した。


「青は、アルトに呑まれそうになった時。」

「……。」

「ジュディの意識を、無理矢理、繋ぎ止める。」

「進行は、止まんの?」

「止まらない。あくまでも、意識を繋ぎ止めるだけ。」

「……。」

「副作用は、正直かなり重い。頭痛、吐き気、吐血、魔力不全。下手したら、青を使った方がしんどい。」


——俺を俺として、繋ぎ止める薬。

そういうことらしい。


次に、ネルは赤を指した。


「赤は、逆の効果がある。」

「逆の効果?」

「ジュディの意識を、鎮める。一時的に、アルトに体を預ける。」

「……そんなの、使わねぇよ。抜いてくれ。」

「最後まで聞いて。上書きには『波』がある。」

「……。」

「大きな波が来て、ジュディが体を動かせない時。アルトに体を任せる。」

「……非常手段ってわけか。」

「うん。」


——アルトに、渡す。


俺が、俺でなくなるための薬。

そう、聞こえた。


「……それ使ったら、俺はどうなるんだ?」

「一時的に眠るだけ。でも、アルトの記憶はジュディにも引き継がれると思う。」

「だから安心ってわけじゃないけどな……。」


ネルが、少しだけ間を置いた。


「……正直、上書きの進行をどうこうできるものじゃない。」

「……。」

「あくまでも一時的な、その場しのぎ。」


正直、嫌な薬だった。

青も、赤も。

どっちも、まともな選択肢じゃない。


「使えとは、言わない。」


ネルが、ケースを俺の方へ押した。


「ただ、持ってなきゃ、選べないでしょ。」

「……。」

「選べないのが、一番、最悪だから。」







俺は、ケースを受け取った。

ネルの手が、少しだけ、離れるのが遅かった。


「……っ。」


その顔を、見る。


「……なんで、ネルがそんな顔すんだよ。」

「……私、どんな顔してる?」

「……苦いもの食った時みたいな顔。」

「そっか。」


ネルが、自分の頬に、軽く触れた。


「参考に、する。」


——自分の表情すら、分析しようとする。

でも、その顔が、もう答えになっていた。


ネルは、感情の名前を知らない。

知らないまま、それを浮かべている。


「んじゃ、ネル。色々ありがとうな。」

「まだ、お礼を言われるようなことはしてないけど。」

「……いや、十分してくれてるよ。」

「……。」


ケースを、ポケットにしまった。

帰ろうと、立ち上がる。


「……ジュディ。」

「……あんだよ?」

「私は、嫌だ。」

「……何が。」

「嫌、なんだよ。」


ネルは、こちらを見なかった。

端末の画面を、見ている。

そこに映っているのは、たぶん、俺の検査結果だ。


「マジで、死ぬなよなぁ。」


——「ぁ」。

いつもの、軽口の語尾だった。


でも今のは、ちっとも軽くなかった。

大げさに明るい声で、ネルに話しかける。


「……分かってるって!」

「……。」

「ネルの、被験者なんだろ?」

「うん。」

「勝手に、死なねぇよ。」

「……バカの癖に。気ぃつかうなよぉ。」


ネルは、こちらを見なかった。

ただ、画面の数値を、ずっと見ていた。


研究室の扉を閉める時。

背中で、小さな声が聞こえた気がした。


——本当に、嫌だなぁ。


でも、たぶん、気のせいだ。

そういうことに、しておいた。


第百十三話、お読みいただきありがとうございました!


ネルの回でした。

普段あんなにうるさいのに、今日は静かでしたね。


青と赤。

信号機なら進めと止まれですが、こちらはどっちも、なかなかしんどい薬です。

覚えておいてください。テストに出ます。


明日も20:10に更新予定です!

ブクマやコメント、評価をいただけると、ネルが検査をちょっとだけ優しくしてくれます。

よろしくお願いします!


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