#4-8
からしん茶廊を出ると、迷わず次の場所へ向かった。
長谷ビルの所在地は若頭から強引に訊き出していた。黄ばんだ色味の外壁をもつ、こじんまりとした四階建て。そのガラス扉を、天空は体で押し開いた。
「止まれ」
脇目を振らず廊下を突っ切ろうとし、受付窓の中年男に咎められる。
「こんな時間にガキが何の用だ」
「西宮に会わせて」
天空は止まると、額のしみが地図を描いている男に詰め寄った。
「あぁ?」
「ここに居るって聞きました。どの階か教えてください」
天空が窓枠に手を掛けると、受付係はドアから廊下へ出てきた。
「ここはガキの来るとこじゃ無んだよ。とっととおうちに帰んな」
「もう一度言います。西宮に会わせて」
聞く耳持たず。肩口を引っ掴もうと伸びた腕を、天空は瞬時に払い除けた。
舌打ちする男はいきなり拳を放つ。天空は姿勢を下げると、
「ぶべっ!?」
その顎下に頭突きを食らわせた。
「あんたに構ってる暇はないの。さっさとどいて」
「このッ……!」
想定外の反撃に倒れた男を眼下に、天空は前髪を手で拭う。皮膚の脂が移って気持ちが悪い。
「何の騒ぎだ!?」
そこへ、奥の階段から三人の男が降りてきた。
「こ、このアマ、ぶっ込んで来やがった! いきなりぶっ込んで来やがったんだ!」
「被害者面しないで。先に殴ってきたのはそっちでしょ」
顎をさする受付係へ駆け寄る顔ぶれに、見覚えのある者がいた。
「あ、お前! どうしてここがわかった!?」
黒丸通りで兄貴と呼ばれていたスーツ姿の男は、天空の姿に面食らう。
「久太郎って人が教えてくれたんですよ。ここが長森組の事務所だって」
「は!? ったくあの人は口軽ぃんだからもう! ……まあいい。石住の野郎が居ねぇんなら、てめぇなんざひと捻りだ」
ぼやきつつ、兄貴分は指の骨を鳴らす。下品で卑しい男に特有の嘲笑を露わにして。
「だから、あんたたちに構ってる暇はないんだって。めんどくさいな」
事ここに至って、天空の脳と心は初秋の外気みたく冷め切っていた。鍵の持ち手に人差し指を引っかけてひと回しするくらいには、煮え切らない迷いは消え失せていた。
あるのはただ、深く滾る怒りだけ。
「なら、もう泣き言は聞いてあげないッ!!!」
階下から伝わる騒乱は、ほどなく事務室まで到達した。
「ぐえぇぇぇぇっ!」
間の抜けた断末魔とともに扉を押し開けたのは、吹っ飛んできた一人の若中。彼は部屋の真ん中に墜落して力尽きた。
組員たちの表情が険しくなる。敵の人数はわからない。迎撃に行った者たちは誰も帰って来なかった。西宮はデスクに置かれたメモラビリアに手を伸ばそうとして、組長にはたかれた。この緊急事態でも、彼は西宮が勝手に能力を使うのを許してはくれなかった。
「久太郎めェ……こんな時にどこで油売ってやがる……!」
組長が歯ぎしりすると、敵は余裕ある歩調で入室してきた。その姿に、事務室の全員があっと驚いた。
「お、女?」
それも、年の頃が二十も行っていないような若者。町の人間とはとても思えないほど肌つやは良く、胸元もふくよかで、癖のついた髪を一つに結っている。ゆったりしたリネン地のドレスの下に円環の意匠をあしらった肌着を着込み、全身に金色の装飾を着けている。さながら神話に登場する乙女か天使といった装いだが、形相は鬼神のそれだ。
「やっと会えた。西宮」
両手にはリング状の奇妙な武器。頬や服にはいくらか血がついている。本人か、他の誰かのものか。
「知り合いか?」
「……石住って奴と一緒にいた超能力者。昼間にも俺を邪魔してきた。名前はわからない」
組長の問いに答える。
「このガキ、こんな真似してただで済むと思ってんのか!? ああ!?」
部下の一人が叫んだ。言葉こそ威勢が良いものの、声は震えていた。当然だった。すぐそこに居る少女は、大勢の屈強なヤクザたちを――銃を持った者だっていたはずだ――残らず蹴散らしてここまで来たのだから。ただの少女ではなく、常人には敵わない力を持った怪物なのだ。
「言っておくけど、あんたたちと戦う気なんて本当になかった。でも邪魔しようとしてきたから、仕方なく倒すしかなかった。この組をどうこうしようなんて気はさらさらない……けど」
女は右腕を水平に上げた。リングの先が示すのは、西宮だった。
「西宮洋! あんたには一言、いや、めちゃくちゃ文句があるッ!」
ずばり名指しされ、西宮は息を呑んだ。
「全部聞いた。あんたに借金があることも、長森組に協力してる理由も」
「は、は? 何なんだよお前、どうして俺を嗅ぎ回ってんだ!?」
警察に追われる理由はあっても、どこの誰ともわからぬ少女に身辺を探られる覚えはない。ヤクザの事務所にまで単身乗り込んでくる異常な執念を向けられる心当たりなど、西宮には思い当たらなかった。
「私は元々、梁太商店街の万引きを個人的に調べてたの。そして犯人のあんたを見つけた。でも黒丸通りで再会したとき、あんたには何か事情がありそうだって思った。だから長森組の人に近づいて、あんたのことを教えてもらったってわけ。でも、驚いた」
彼女は自嘲気味に首を振った。
「てっきり私、あんたが脅されて長森組に利用されてるんだと思ってた。けどそうじゃなかった。長森組の手伝いは、あんたから言い出したことらしいじゃない。あんたは自分の意思で、そいつらの味方をしている。でしょ?」
不意に部屋の空気が熱くなってきたのを感じた。その熱気は、少女の方から漂ってきていた。
「あんたは私から逃げた後で、たまたま長森組の人たちに遭った。借金が払えなくなって、家族を傷つけられるかもしれないと思ったあんたは、お金と引き換えに自分の身を差し出すことにした。自分の能力があれば組の役に立てるとか言って。あんたの力、『物を届ける』能力だっけ。たしかにいろいろ使えそう。盗んだり、こっそり危ない物を運んだり。物が鳥に変身して空を飛ぶなんて、普通ならバレるわけないもの」
「っ……」
図星を突かれ、西宮は返しに詰まった。
物を届ける力に、物を葉書に閉じ込める力。突然目覚めた新たな能力を試してみて、犯罪向きの力だとすぐに思った。盗品や麻薬、外界からの密輸品など、この町のヤクザは表に出せない品物を売買している。そういったいかがわしい物の輸送に打ってつけな自分の力は、ヤクザにとって喉から手が出るほど欲しいはずだ。だから西宮は、廻元者である自分を組との交渉材料にしたのだ。
「黒丸通りを襲ったのは、さしずめ力のデモンストレーションってとこかしら。だからって、いきなりあんな派手な真似するのもどうかと思うけど。なんだっけ、長森組って、頭悪いんだっけ?」
「なっ……ガキが舐めてんじゃねぇぞッ!」
組長は拳銃を抜いた。彼に限らず、長森組のメンバーは頭に血が昇りやすい傾向があった。
それに対し、少女両輪の先を突き合わせて真横に薙いだ。
放たれる熱の刃。
「ひっ、ひいぃぃぃぃ!」
拳銃を弾き飛ばされて、組長は腰を抜かした。
「気に障ったならごめんなさい。でも、頭の悪さで言ったらあんたの方がよっぽど酷い。西宮さん」
少女の血眼に組長たちは映っていなかった。あるのは西宮だけ。
「あんた、なんでここに居るの? 病気の家族放って、どうしてこんな所に居るのよ」
あろうことか、彼女が持ち出したのは家族の話だった。
「……何が言いたい」
「もう夜よ。あんたが家に居なかったら、あんたの家族は今、誰が面倒見てるの」
「お前には関係ない」
「まさか長森組に世話させてるんじゃないでしょうね。あんな平気で人を殴るような奴らに」
「関係ないっつってんだろ!!!」
西宮は机のランプを引っ掴んだ。今度こそは組長も止めなかった。レッドアウトの幕が眼前に映写され、西宮は装いを変えた。
「お前何なんだよ! 人の隠してるもん勝手に探って、挙句に説教垂れやがって! 何様のつもりだ!!!」
バッグから葉書を一枚出し、念じると、鋭利な包丁に変わる。護身用の武器はあらかた葉書に変えて持ち運んでいたが、今取り出したのは身を守るためではなく、この女の口を一刻でも早く塞ぎたいからだった。
「説教されてるって思うのは、後ろめたさを感じてる証拠じゃないの」
「うるせぇッ! お前に俺の何がわかる!?」
「少しはわかるつもり。私のお父さんも、病気だったから」
そう言うと、少女の肩が小さく下がったように見えた。
「私はお父さんに何もしてあげられなかった。あのとき私は、看病も家事も、何一つできなかった。入院費だって自分じゃどうしようもなかった。できたのは病院のベッドの上で、体が弱って死んでいくあの人を、見殺しにすることだけ」
幾人もの男たちを叩きのめしたはずの彼女が、このときばかりは等身大の子供に感じられた。
「だけどあなたは違う。ずっと家族を守るために努力してきた。それができるだけの力と覚悟が、あなたにはあった」
「知った風な口を利くな!!!」
思わず包丁を振ると、当たりそうになった横の組長が顔を青くした。
「たしかに俺はずっと、ずっと努力してきた! ろくすっぽ働きもしないろくでなしの親父抱えて、学校も辞めさせられて、クソみてぇなヤクザや親戚連中に頭下げて……それでも俺は! 姉貴のためにずっと努力してきたんだよ! 家の誰よりも働いた。看病もした。金も集めた。自分の人生全部を、家族のために費やした! そこまでやって……!」
迸る血流のままに、西宮はがなり立てた。彼女の熱気にあてられて、声帯のたがは外れていた。
「そこまでやってッ! それでもまだ努力しなくちゃならないんだよ! 終わりの見えない暗闇から抜け出すせるためには、ヤクザにでも何だろうとならなくちゃいけないんだ! その気持ちが、お前なんかにわかってたまるか!」
西宮洋にとって、人生は無いに等しかった。働けない家族のために、常に己を犠牲にして生きてきたからだ。
幼い頃から病魔に苦しめられてきた哀れな姉。一人では生きることのできない小さな姉。ツキに見放された人生で唯一優しくしてくれた、愛する家族と呼べる人。彼女だけは、なんとしてでも守り抜かなければならないのだ。
「長森組に入れば、少なくとも姉さんの安全は保証すると組長は約束してくれた。金もシノギで返せばいいってな。それで全部上手くいくはずなんだ! なのに、部外者が余計な茶々入れんじゃねぇ!」
だから西宮は、他人のくせに得意げな言葉を偉そうに垂れ流す小娘が腹立たしかった。
「次に余計なことを喋ってみろ。こいつをお前の喉元に送り届けてやる!」
西宮は帽子を脱ぎ、警告した。自分が念じれば、幻影のハトで包丁を即座に発送できる。たかだか数秒で殺すことだってわけはないのだ。
「そこまで思ってるなら、」
しかし、女は警告を無視した。
「余計なことを喋るなと言っただろッ!」
「そこまで思ってるならどうして! あんたは万引きなんてしたの!?」
女は叫ぶ。指先に込めた力が、抜ける。
「本当に家族のことが大切なら、犯罪なんてしないはず。なのにあんたはやった。しかも何度も。たかが万引きだなんて思ってるかもしれないけど、警察に見つかったら捕まる。職場にも連絡が行くでしょうね。そうしたら、あんたは十中八九クビになる。前科がついて仕事も失くしたら、あんたはどうやって家族を守る気だったの?」
昂った血潮が引いていく。必要な血さえもいくらか持っていかれて、寒気さえ覚える。
「あんな能力を持ってるんだもの、絶対に捕まらない自信があったのかもしれない。でも、あんたは私に見つかった。そして逃げた先でヤクザに出くわして、長森組に協力する羽目になった。お姉さんが知ったら、きっと哀しむ。自分のせいで弟をならず者にしてしまったって。家族が大事なら、哀しませるような真似なんてしないでよ……!」
「う、うるさい! 死にたいのかお前は!?」
三度脅す西宮。包丁を支える腕は微かにブレていた。
「ハシボソで戦ったとき、あなたは私に直接とどめを刺さなかった。多分あなたは、本当はいい人なんだと思う。万引きを始めた理由はわからないけど、単純に魔が差しただけなのかもしれない」
ふと、脳裏に商店街の景色がよぎる。
洋服屋のショーウィンドウに飾られた、子供サイズの薄桃色の部屋着。姉にはよく似合うだろうと思った。けれど、貧乏人が買える値打ちでは到底なかった。
仕事中、通りがかりにそれを目にして。
「……」
思いついてしまった。
「でも、それは絶対にやっちゃいけなかった。あなたはずっと頑張ってきたんだろうけど、それでもズルをしちゃいけない場面っていうのはある。絶対に道を外れちゃいけない場面で、あなたはズルをした。何度も繰り返した。結果あなたは、ヤクザに使われる道具にまで成り下がった」
「そ、れは」
呼吸が上手くできない。
女は持っている武器を放すと、西宮に迫り寄った。重い金属音が短く鳴った。
「何やってんのよ」
唾が当たりそうなほどの距離で、彼女に両肩を掴まれる。
「あんたは正真正銘の大馬鹿者よ! そんな便利な能力があれば、盗みなんてしなくたって、真っ当な手段でいくらでもお金を稼げたはずでしょ!? それをあんた、どうして万引きなんてつまらないこと……少し我慢すればよかっただけなのに……! せっかく人に無いものがあって、人生変えることだってできたかもしれないのに!!! ほんと何やってんのよ……!!!」
我慢なんて当たり前のようにしてきた。思い通りにならなくて、我慢するしかなかったときなんて数え切れないほどあった。そうやって、自分の望みに蓋をすることが当然になっていた。
見ず知らずの女に言われて、彼はようやく気づいた。我慢をし過ぎた。だから耐えるべきところを誤ったのだ。これくらいならいいだろうと甘えて、許されないことをした。すぐ近くの明るい道に気づかずに、暗闇を選んでしまった。
「う……あ……」
指先から包丁が滑り落ちるのと一緒に、膝から崩れた。浮かんでくるのは智紘だった。弟が万引きをしたと、ヤクザになろうと知ったら、果たしてどんな顔をするだろう。どんなことを言うだろう。どう思うのだろう。それに自分は、耐えられるのか?
いや、考えるだけ無駄なことだ。
この先に起こることを、西宮は覚悟するしかない。
「警察ももう動いてる。あんたたち長森組の横暴も、間違いなく追及される。心しておいて」
女は周囲の男らを見回し、臆しもせずに告げた。この場の誰も、これ以上彼女に歯向かおうなどとは思っていなかった。
ただ一人を除いて。
「ほぉーっ、こりゃ驚いた。まさか女だとはなあ」




