第二話 呪いを受け、転移するに至った理由について 2
ぼろを纏った女が賭けたのは、黒い剣だった。
コルニスタンの北方で見られる、ケペシュと呼ばれる鎌のように曲がった刀身を持つ武器だ。儀礼的な目的で打たれた、刃のないものも存在するが、彼女の手にあるそれは鋭く研ぎ澄まされ、獲物の肉体を容易く切り裂いてしまいそうだったし、それ以上に禍々しく底知れぬマナを感じた。
傭兵として優れた武具は望むところだが、わたしは明らかに異常な執着をその黒い剣に覚えた。なんとしても手に入れなければならないという渇望。それは砂漠をさまよい水を欲しがっている人間が目の前に、氷水の入ったグラスを置かれたような感覚だった。
彼女はそれは、カリーヤ、カーヤー、あるいはカハルジャと呼ばれる冥府の神から、賭けで奪ったものだと誇らしげに言った。なにを馬鹿な、と思いながら、わたしはそれから目を離すことはできなかった。
女は獣骨で作られたダイスでの単純な勝負を提案した。三つを振り、出た目の大きさを競うのだ。
わたしは初めに金を賭けた。買ったり負けたりを繰り返し、手持ちの資金は尽きかけたが、いけると踏んだわたしは装飾品に手をかけた。そこで女は奇妙なことを言い出した。
わたしの一部を賭けて欲しいのだという。よもややくざ者やグランクローシェの腐敗司祭がするように、借金のカタに臓器や目玉を売らせるような意味かと思ったが、彼女はわたしの「影」や「名前」が欲しいと言い出したのだ。
もしも今、わたしがその瞬間に戻り、賭けに興じる過去の自分を前にしたら、殴りつけてでも制止するところではあるが、魔剣の魅力に目がくらんだあの夜のわたしは、この怪しげな女の言葉を冗談と取り、賭けに合意した。
そこからは見るも無残な大敗だった。わたしは影と、名前の大部分を失い、女は愉快そうにそれを見ていた。
わたしも、傭兵の集う酒場で酒代を賭けてカードやダイスで勝負したことは何度もある。いかさま師相手に授業料を支払い、賭けの見抜き方を覚えた。物理的なものよりも注意すべきなのは魔術による不正だ。わたしは感覚を強化し、女が不用意にマナを動かせばすぐに分かる体勢を整えてはいたが、彼女は何の魔術も用いてはいなかった。それを完全に打ち消すのではなく、単に使用を察知するだけなら、これほどの近距離なら相当格上の相手にも有効なはずだ。それでも、ただ黒い剣のこの世のものとは思えぬ奇怪なマナが渦巻くだけで、女は凪いだ海のように静かだった。
わたしはその時点では手持ちの金を失い、見知らぬ来訪者にからかわれただけだと思い込んでいた。影や名前を奪うなど、どうしてできようか。
しかし、女が不敵に笑う中わたしは恐るべき事実に気づいた。背後を一瞥すると、焚き火が作り出す我が影はなく、そしてどうしても、自らの名前が一文字を除いて思い出せないのだ。
慌てて首の認識票を見ると、一文字以外のすべての文字が消え去っていた。
急激にわたしを寒気が包んだ。これは夢だ、と思った。目の前の女に目を向けると、既にそこには誰もいなかった。
ただ、あの黒いケペシュが一振り、横たわっていた。
辺りに彼女の声だけが響き渡る。
賭けには負けたものの、彼女はわたしにその剣を授けると言った。
しかし、同時に彼女はわたしに呪いをかけたのだ。
「これよりあなたは、一枚の銅貨すら得ることはできない。いかに身を粉にして働いたところで、報酬は消えうせるだろう。しかし、ひとつだけ例外がある。盗むのだ。盗みによってのみあなたは、後ろ暗く甘い金貨を手に入れることが叶うだろう。
そして、何人たりともあなたから盗むことは叶わない。どれほどの大盗賊とて、あなたからの盗みは禁じられるのだ。
あなたはすべてではないが名を失い、もはや亡霊のごとく誰からも記憶されない。その剣を使えば、さらに盗みは容易になるだろう。
悪行に手を染めるのだ、ジェイ。しかし殺しはするな。それはあの、血みどろ女の領分だ。夜の闇に紛れ、あるいは白昼堂々、その虚ろなる手を伸ばせ。
あなたが望むならば、影と名を買い戻すこともできよう」
彼女の提示した額は、とてつもないものだった――わたしが育ちの悪い帝国人であれば間違いなく叫んでいた――「箆棒じゃねえか!」と。
「足掻くがよい、定命の者よ。夜の闇の中から、あなたの働きを見守っているぞ――ではな」
わたしは最後に、あなたは誰かと尋ねた。夜の闇の向こうから、答えが返ってきた。
「よからぬ者の守護者、共犯者、あるいは商売敵」であると。
気がつくと、わたしを曙光が照らしていた。
すべては、夢だったのだ。あの女も、黒い魔剣も、影と名前を奪われた哀れなエルフも。
しかし、周囲の様子は一変していた。
エンバーヴェイルの岩がちな荒野ではなかった。草の生い茂る原野。湿潤な大気。点在する尖った岩山。聞きなれぬ鳥獣の声。
それは異国のようだった――わたしは、転移したというのか。
すがり付くように自らの影を見た――それはどろりと蠢き、一振りの剣に形を変えた。現実を突き付けるかのように。
あの女が昨晩話していた通りだ。冥府の神の持ち物のひとつ、影を鞘とする魔剣〈闇浸し〉。仕舞う影がないので、自らその役を果たすということだろうか。
わたしは認めざるを得なかった。盗人の呪いにこの身は冒され、見知らぬ地へ――恐らくは東方の大陸、コルニスタンへ飛ばされた。
しかし、得たものもある。この魔剣と、新たな名――〈J〉。
あの女はきっと、盗人の神ハルミナ――その化身か眷属か。
途方もない大金を、わたしは稼ぎ出さなくてはいけない。盗みによって。
わたしは傭兵としての証たるバッジと軍服を打ち捨て、異国での旅を開始した。




