第一話 背教者
その玉座の上には天井がなかった。
打ち捨てられた廃墟のように崩れ落ちたのではなく、最初からそう建てられたのだ。この天窓からは雲ひとつない蒼穹が覗き、陽光が差し込んでいる。
ここは天空教の総本山たるアズルヘルム――鏡のように空を映す塩湖の、只中の島に築かれた聖地。そのさらに中枢である大聖堂、〈天空宮〉。天窓の真下に置かれた玉座の周辺は、室内だというのに青々と草木が生い茂っている。
一人の騎士が、真っ直ぐに聖堂の入り口から伸びた轍を歩き、玉座に鎮座する主のもとへやって来た。
主はまだ歳若い少女に見えた。青い祭服に身を包み、奇妙なことに頭髪も同じ、空のような色だった――自然の色ではない。このような色の髪を生まれついて持っている種族は、世界のどこにも存在しない。したとすれば、それは「奇跡」と呼ばれる。この少女がまさにそれだった。
「教皇聖下。仰せにより罷り越しました」
騎士が纏っているのは、少女の髪と同じく鮮やかな空色の鎧だ。彼は跪き、主の言葉を待った。
「騎士長ロード・デーヴィドよ、忌まわしき背教が成されました」やがて教皇は澄んだ、しかし感情の篭らぬ声で言った。「クレメンタイン・イースターブルック、カルドランドへ赴いていた〈浮雲〉が一人が息絶え、蘇ったのです」
「屍術を受けたということですか……なんとおぞましい。かの者が未だに天空の騎士であるならば、即座に自害して然るべき。そうでないということは、敵の手に落ちたか、さもなくば自ら望み不死者と成り果てたというわけですか」デーヴィドは苦々しい面持ちで言った。教皇は頷き、
「審問官を向かわせ、かの者に速やかなる再びの死を。天空の父への裏切りを許してはなりません」
「ただちに」
デイーヴィドは踵を返し、玉座から離れた。
彼はその後、クレメンタインが王国の南部、迷宮都市ブリガンズヘイヴンへ向かったという情報を得、かの地へ審問官を派遣した。迷宮都市か。忌まわしい場所だ。大半の魔法具、そして呪具は迷宮より生じる。それを目当てに集まるならず者たち。異形の魔物ども。深き階層に潜む魔界の住人――悪魔。そして人であることを止めた迷宮潜り。
クレメンタインは死への恐怖に取り付かれてしまったのだろうか。悪しき力を裁くためにそれについて学び、やがて魅了されてしまう――あってはならぬ事態だが、往々にして起こりうることだ。
デーヴィドは嘆息し、速やかな終息を願った。今やクレメンタインは、屍術士や呪具の使用者、そして魔物と同じ討伐対象なのだ。
彼の沈んだ内心とは裏腹に、大聖堂を囲む塩湖が映す空は、凪いだ海のように静かで、ひたすらに透き通っていた。
■
「あのボロ車とおさらばできたってのは嬉しいが――なにせ三回に一回はエンジンがかからねえし、音も馬鹿でかいときてた――とっとと足を調達したいもんだな」
粗野な帝国訛りで不死者の旅人ジェイは――かつてのクレメンタインは、そう言った。街道を少し離れた草原を東へ進む。隣を行く相棒キャンディはいつものように無言だ。
「なあ、私はふと疑問に思ったんだけど、私が狂って亡者となりゃあんたが始末をつける、だがあんたのほうがイカれちまったらどうすんだ? たぶんあんたは私より強いよな? ってことは野放しになっちまうんじゃないのかい? 無論第一の犠牲者は私ってわけで」
きっとキャンディはディヌイアル――自分を蘇らせたエルフの屍術士――の被造物の中でも、ある程度の「傑作」には位置するはずだ、とジェイは当たりを付けていた。そうじゃなきゃ、外部に貸し出すはずがない。発狂・暴走の心配のない個体なのだろうか。
「あんたは生前の自我が残ってんのかい? もしそうでないとすれば――魔法生物みたいな、ひたすら命令に従うタイプか? それなら前者に比べて暴走の心配は格段に少ない。それでもどうにかしちまう悪質なすべはいくつかあるだろうけど、そんなものは通用しないって先輩は自信を持ってあんたを送り出したのかい?」
キャンディは草を掻き分けながら、わずかに頷いた。
「そうかい、まあ私が最初にくたばるってんなら、後のことはどうでもいいけどな。三人死のうが三百人死のうが。ああ、あんたがあの南方人、名前なんつったかな、あのいけすかねえ傭兵とやりあったって話は聞いてたよ、リーフリターの従者のドヴェルがえらく強ぇって。そんときはメイドの格好をしてたそうだが、あんたは先輩の従者なのかい? ドヴェルがあの場所のエルフのメイドってのは、興味深い話さ。それとも彼女の一族に仕えてるってわけか? 先輩の先祖はラエルからの追放者、らしいけど」
回答はない。ジェイもそれを期待したわけではなかった。ここに来るまでの車中でも、ジェイが一方的に喋り、キャンディはたまに頷くか首を振るだけだった。やかましい連れ――例えばあの空色の目の風生まれ――よりかはよっぽどましだ、とジェイは思っていた。
上空で無数の亡霊のような影の群れが、不規則な動きで横切っている。あれは幻覚だろう、本物はもっと気色の悪いマナを纏ってる。そう判断したが、自信はあまりなかった。かつてのように、呪われた存在のマナを感知する力は今はかなり弱っていた。なぜなら自分がそうだから。悪臭に鼻が麻痺するように、己の感知能力がだめになっているか、死亡した際に魔力器そのものが変質してしまったか。
魔法は依然使えるが、神聖術はもちろんすべて使用不能になっていた――神聖術。考えてみれば、これも奇妙なしろものだ。教義の遵守、神への信仰。これらを持ち続けた者のマナに起こる変質。そういう意味では、呪術と近い業だ――そんなことをアズルヘルムで公言すれば、果たしてどんな目に合うか。なぜかジェイは愉快な気持ちになり、少しばかり笑った。
『背教者め。今すぐに自害すべし。そのまま生き恥を晒すなかれ』
そんな、掠れた声が聞こえた。声の主はゆらめく顔のない影だった。
「篤信者の旦那よ、幻覚の癖に説教じみてんな、あんたはあれか? 私の心の奥底に眠ってる罪の意識の発露かい?」
軽口を返すも、ジェイにはその声に聞き覚えがある気がした。死とともに忘却した、騎士時代の師か誰かか? それとももっと前――単なる帝国人の娘であったころの知り合いか? 自分がなぜ聖騎士となったのか、それは今やすっぽりと抜け落ちてしまっている。
『神は必ずや、お前に裁きを与えるだろう、罪人め』
「そりゃあ、そうだろう。私のような不死者は、天空神ヒムの怒りによって焼かれるべきさ。しかしいつだ? 今すぐか? もしそうなら手っ取り早くていいけれど、天より裁きの炎が振りそそぐ様子はないじゃないかい? アズルヘルムの手のものへ教皇聖下が命じ、そいつが遠路はるばる私のところまでやって来る、役所じみたまどろっこしいプロセスが実際は必要だからな」
『呪われろ、背教者めが』
すでに呪われてるさ、と言う前に影は消えうせていた。




