第二話:一般人level16
天は光に満ちていた。
眩しすぎず、明るく、慈愛に満ちて。
そんな光は聖堂の窓から一直線に落ち、やがてその中の全てを照らす。
石畳をブーツが叩く硬質な音が響いた。
差し込む光を全身で受け止め、フレイアは目を細める。
聖堂の中央、光の中に溶け込むような白い衣服をまとった女性がいた。
「母上」
女性は母と呼ばれ、顔をほころばせる。端正な顔に、優しさに満ちた笑みが彩りを添える。
フレイアもまた笑みを浮かべた。
こちらは自信に満ち、堂々とした笑み。
後ろ側で二つに纏められた銀色の髪が、歩みを進めるたびに揺れ動き、陽光を反射する。赤い瞳は彼女の意気を表すように、明るく澄みきっていた。
「皆、あなたが来るのを心待ちにしていました」
「はい」
母の言葉を聞いて、フレイアは周囲に目を向けた。
唐突に、聖堂の中央を囲むようにして、無数の人影が現れる。長駆で柔和な顔立ちの青年から、威厳溢れるいかめしい老人、果ては大きな翼を持つ乙女まで、多種多様の容姿、彼らは自らを神と称する者たちであった。
どれも自称である、などという言葉など不要。誰もが神を名乗るに恥じぬ力を持っていた。
聖堂が瞬きをする間に、神話の舞台へと変貌する。
だが、並みいる神々を前にしてなお、フレイアは笑みを浮かべた。
彼女の母親もまた神を名乗る者、そして彼女自身もその血を濃く受け継いでいるのである。
神々が用意した舞台、今はその全てがフレイアの為にあった。
やがてフレイアは母の前で歩みを止める。
心臓の音が大きくなった。母の目の前でありながら、どんな言葉を出せばいいのか迷ってしまう。
「フレイア」
「……はい」
「今からあなたは旅に出るのよ」
「そのために、ここへ参りました」
フレイアは硬い表情で答える。
母は緩やかに、優しくフレイアを抱きしめた。
「あなたの悪いところは、せっかちでおっちょこちょいなところ」
「……」
「焦らなくてもいい、自分のいいところをたくさん見つけてきなさい。そして本当の女神になってくるのよ」
言って、フレイアの額に口づけをする。
「最も幼き神、フレイアに祝福を……行ってらっしゃい」
母がゆっくりと離れる。
フレイアは照れ臭そうに笑い、一人聖堂の中央に残った。
もはや緊張など微塵も残っていない。彼女の顔には不敵とも言える笑みが浮かんでいた。
「必ずや、良き女神となって参りましょう。行ってまいります‼」
その日、天界から新しい神が、地上に舞い降りた。
♢♦♢♦♢♦
「ああ……うん……?」
悩みに悩みぬいた挙句、出てきた言葉はそんなものだった。
「何じゃいそのリアクションは」
不服そうなフレイアの声が海里の耳に届く。
ごもっとも。
海里はそう思ったが、同時に仕方のない事だとも思った。
とりあえず相槌でも打っておこうか、と話についていけなくなった日本人の反応など、所詮こんなものである。
「理解できたのか、できなかったのかハッキリせい。こっちまで反応に困るじゃろうが」
「そうは言ってもねぇ」
海里は先日の出来事を少し思い返した。
部屋の中に見た事もない女の子が現れる。
一人称が妾である。
自分は神だと名乗る。
何が何だかわからない内に連れ去られる。
困った。
「意味がわからん」
「何がじゃ?」
「いやもう、お前……フ、フレ、フレイ……ム?」
「フレイア」
「フレイアが現れてからのあらましが、全面的に、何もかも」
いきなり『吾輩は神である。名前はフレイア。天界生まれの天界育ち。立派な女神になるために故郷を旅立ち遥か下界へ舞い降りた』と。
大体そんな内容の事を説明されたが、海里の脳内は現状を把握するどころか、さらなる混乱に放り込まれるばかりであった。
出会いがしらに神と名乗るだけなら、広い世の中、そう自称する人間もいないこともない。
それが幼い少女なら、微笑ましいなぐらいに思って終わりのはずであった。
だが実際はそんなに事が丸く収まってくれず、明らかにフレイアが原因と思われる光に包まれて、海里は自分の部屋から見知らぬ城のど真ん中に放り出されていたのである。
あまりにも状況判断に困る怪奇現象だった。
「まあ、フレイアが神様だって事は一応、信じるとしてだ」
「一応って何じゃい! 妾は真剣に女神になると心に誓ってじゃな、人を救う事を」
「心の底から信じるとしてですね」
何でもないような一言に、フレイアは髪を振り乱すくらいに反応する。
遠心力を持って暴れ出すツインテールを見て、海里はすぐに言葉を言い直した。
「フレイアは母親、その他の神様に送りだされて、女神になるための修行の旅に出た、と」
「うむ」
頷くフレイア。
揺れるツインテール。
海里は眉間を抑えながら言った。
「何故に俺まで同行する羽目になっているのか」
連れ去られる直前、フレイアが『お前が欲しい』だの『盟友』だの、不穏な言葉を言っていたのを海里は覚えていた。
フレイアの言葉には相当な齟齬があるように感じてならないのである。
絶対何か勘違いしてたんだろうな、とアタリをつけ、
「んむ、正直に言えば……ミスった。一人旅は寂しいから強そうなお供が欲しかったんじゃよ、そう、強そうな、うむ」
帰って来た返事は手違いという、やはり予想通りのものだった。
神様のお共にその辺の高校生を引っ張っていく理由がない。
フレイアの額にはうっすら汗が浮かんでいる。
今度は眉間を抑えるのではなく、頭を抱えて深々と溜め息をつく。
「だ、だって……あんなに無口で神にも動じなかった人間が、タバスコドリンク飲んで喋れませんでした、なんて言うとは思わんじゃろう!?」
「それにしたって、さぁ……」
「妾だって到着早々に、お主が噴水から水を飲み始めるとは考えておらんかったわい」
「言うな、俺だって飲みたくて飲んだ訳じゃないし。全部タバスコが悪いんだし」
「異世界に来て初めて聞いた言葉が『ヤバい、噴水から水飲んだの、女の子に見られたかもしれない』って何じゃい……」
「やめて、やめてください、ホントやめてください」
「イメージぶち壊しじゃ、少しくらい夢を見させてくれても罰は当たらんじゃろうに……」
沈鬱な面持ちで心の傷を抉りにくるフレイアに、海里の溜め息の長さが五割増しになった。
フレイアは一しきり唸ったあと、苦渋の決断という面持ちで海里に言った。
「まあ……気乗りはせんが、帰りたいならお主にはちょいとばかり手伝ってもらわねばならんの」
「時に、今すぐ帰るという選択肢は」
「無い」
即答である。
互いに無気力な半眼で見つめあい、同時に溜め息をついた。
「……何故」
「ちょっと説明するとじゃな。神とは人を救って崇められてこそ神なのじゃよ、そして妾はヘラクレスやらゲオルギウスやら人間やめた連中しか見た事がない」
「つまり?」
「人を救った事がない、半分が女神で残りの半分が優しさでできているような、中途半端な神。そんな妾に世界の壁を軽く超えられるような力が残っているとでも思うか?」
また二人して溜め息をつく。
幼い女神見習いの半分が優しさで構成されているのかはともかくとして、
「どうするんだ、お互いに」
「方法がない訳ではない、だから手伝ってもらうと言ったじゃろう」
フレイアは腕を組んで真剣な顔で言った。
「まず一つ、人から崇められれば神としての格が上がる。神としての力も然り」
指を一本立てて説明を始めたフレイアに、海里は黙ってうなずいた。
「二つ、神はなるべく人の前に出ない方がよい、神秘性が減るからの。だから英雄に力を貸し与えて、悪竜を倒させたり国を救わせたりする訳じゃな」
二本目の指を立てて言う。
そして、妾が力を得てお互い無事に帰還するには、と前置き、こう締めくくった。
「お主、パパッと英雄になってまいれ」
「無茶言わんでもらえますかね女神さま」
思わずチョップを一発。
「やっぱり無理かの?」
「もう無事に帰れるビジョンが微塵も湧いてこないわ。お前だけが裏で糸引いて、無事にすんでもまったく意味無いんだよこのすっとこどっこい」
頭を押さえて不満げな顔をするフレイアに、もう一発手刀を叩き込んだ。
他人に自分の長所を聞かれると答えに詰まってしまう、海里は所詮その程度の人間なのである。英雄になる前に『哀れな犠牲者A』として短い生涯を終える未来しか見えていなかった。
「むぅ……なら、仕方がないから妾の使いとして善行を積んでみるか? 英雄になるよりスケールが小さいから時間はかかるが、危険が少ないぶん確実かもしれん」
「最初からそれでよかったのでは」
「あんまりチマチマしてるのも神様としてどうかと思うのじゃ」
三発目の手刀がフレイアの頭に吸い込まれる。
「さて、とりあえずだが今後の方針は決まった訳だ」
「……痛い」
「俺は貴様の妙なプライドのせいで、分不相応にも程がある一大スペクタクル冒険譚の一歩を踏み出そうとしていたんだが」
さておき。
「我々が行動を開始するにあたって、まあ色々と課題は山済みだが、何よりも先にクリアせねばならん問題がある」
言うと、海里は先程から彼とフレイアの間を隔てている冷たい鉄格子を指ではじいた。
硬質な音が無機質な石の壁に反響し、不気味な響きとなって耳に残る。
狭い部屋の中には布と言うよりボロ切れが乗ったベッドがあるのみ、窓も鉄格子によって外界から遮断され、空の明るさから時間を確認できる程度の大きさしかない。
そう、ここは牢屋なのである。
海里は絶賛服役中であった。
「この部屋から抜けださなきゃ何も出来ん、というかこの牢屋から脱獄しなきゃならん」
喉の痛みに耐えかねて噴水から水を拝借して間もなくのことであった。
何やらヨーロッパ風のお城に来たと思ったのもつかの間、これまたヨーロッパな外人の集団に言葉も分からぬままに捉えられてしまったのである。
フレイアは危険を察知したのか、いつの間にか雲隠れを決め込み、一人城のど真ん中に残された海里だけが牢屋に放り込まれる事と相成ったのであった。
最初は焦りに焦ったものだったが、捕まったのが夕暮れ時で、窓から月を見上げたのは今二回目だ。時間にして丸一日以上、こんな殺風景な部屋の中で過ごしていると、自然と心も凪いでくる。
乱暴に頭を掻きながら、鉄格子の外側にいるフレイアに向かって目を向けた。
「何で俺だけ」
「運が無かったの」
「無理矢理連れてきた相手見捨てといて、よくそんな事が言えますね」
「お主がどんくさいだけじゃろうが、うだうだしてないでとっとと逃げればよかったものを」
フレイアの言葉が終わるなり、鉄格子の間から四発目のチョップが繰り出され、そして空を切った。
何、と海里は一瞬だけ硬直する。
本当なら手首のスナップをきかせた一撃は、小生意気な女神の頭部を的確に捉え、軽い打撃音を響かせるはずだったのである。
見れば、フレイアは鉄格子から一歩引いた辺り、ちょうど手が届きそうで届かない位置で、身長も足りていないくせに自分を見下すように睥睨していた。
憎々しげな海里の目と、勝ち誇ったようなフレイアの目が交差する。
「オイ、もっとこっち来い。仏の顔はもう品切れだぞ」
「嫌じゃ‼」
「だったら俺をここから出してみせろコラ‼」
「じゃあ牢屋から出してチャラ‼」
「お前ね……」
「……た、叩かれるのは嫌なんじゃ‼」
しょーもない、と海里の理性が呆れたように呟いた気がした。
もちろん、お互いに、である。
「……叩かないから出してくれ」
「本当か?」
「うんホントホント」
「……ぜ、絶対じゃな?」
「絶対だからお兄さんは早く鍵でも探してきてほしいな」
「……よし、わかった」
「いまさらだが根本的に鍵なんか見つかるのか?」
気だるく言ってみる。
言っては見たが正直海里は期待はしていなかった。
フレイアの見た目は十歳前後のまさにお子様であり、中身もどこか達観しているような部分はあるが、ほぼ年相応と言える。
こんな相手に、知らない、見た事ない、わからないと、ないないずくしの現状をどうにかできるとは思えなかったのである。
が、そんな海里の考えをよそに、フレイアは思い切り胸を張って、言った。
「んなもんいらん、下がっとれ」
「…………え……いや、下がる?」
牢屋を開けるのにそんな物は必要ない。
そんな鉄格子の存在意義を根本から否定するような言葉に、言いようのない不安を覚えた。
フレイアは両手を牢屋の方へ向け、なにやら深呼吸を始める。
何かが起ころうとしている、いや、何かを起こそうとしているのは明白であった。
「ちょっと待とう、フレイア。何しようとしているんですか、ホントに」
「妾にまかせておけばよい。考えてみればこれが神生初の人助けじゃ、張り切っていくぞ‼」
「オイコラ、答えになってないぞ‼」
突如、何かが軋むような音がした。
実際は音などしていないのかもしれない、だが、海里は何かが軋んだ、そう感じた。
フレイアを中心に自分を含む空間、物体が軋みを上げながら組みかえられていくような、そんな感覚。
海里が戦々恐々としているうちに、フレイアの両手が光を帯びる。
光は滲み出るように両手からあふれ、やがて鉄格子の目の前に一つの円を形成した。
「いくぞー」
キャッチボールでもしているかのような気楽な口調でフレイアが言う。
海里には反応している余裕など微塵も無かった。
光る円の形は一般人でも見覚えのあるような物だったのである。
見た場所は、恐らくマンガやアニメの世界。円の中には規則性のある線と文字の羅列。
それは魔法陣と呼ばれる物であった。
「あ……待っ」
我に返った頃にはもう遅い。
魔法陣は眩い光を放ち、何かが軋むような感覚は、もう何かが歪みに耐えきれずに破壊されるような感覚に変わっていた。
こんな状況に、ふと頭に浮かんだのは自分の部屋から拉致された瞬間である。デジャヴを感じながら、海里はほとんど飛び退くように鉄格子から距離を取る。
「光りあれ‼」
フレイアの声。
光りが爆発する。
直後、牢屋全体を崩壊させんばかりの轟音と震動が彼を襲った。
絶対的な強度を持つはずの鉄格子はいとも簡単にひしゃげ、その役目を失う。あまりの威力に石畳の床が抉れ、地面がむき出しになった。
爆発的な震動が建物を揺らし、他の牢屋ですら軋みを上げる。
もうもうと立ち込める砂ぼこりの中で、この圧倒的な威力の一撃を放った本人は両手を突き出したままの体勢で固まっていた。
「ふむ、威力も抑えた上、標的も鉄格子に絞ったつもりじゃったが……」
こめかみから一筋、汗が流れる。
「やりすぎたかのう」
「殺す気かこのダ女神コルァ‼」
「あうぁっ‼」
いまだ立ち込める砂ぼこりの中から、突然の一撃。鋭い手刀がフレイアの頭部を打ちすえた。
崩れ落ちるようにフレイアはうずくまり、そのそばに埃まみれになった海里の姿が。
「ぶ、無事じゃったか……」
「牢屋ごと吹き飛ばされかけたがな……」
フレイアは涙目で渇いた笑いを浮かべた。
また漏れそうになる溜め息をこらえながら、海里は口を開く。
何を言おうとしたのか、海里の考えが言葉に変わる、まさにその瞬間であった。
「ぬ」
「ん?」
二人同時に反応した。
フレイアは警戒心のこもった顔で、海里は頭の上に疑問符を浮かべて。
何か音が聞こえたのである。
自然に発生する風の音や木々のざわめきとは違う何かの音。
「――――‼」
今度はまともに聞き取れた。人の声である。
どこか切羽詰まったかのような声は段々と足音をともなって近づいてきているように感じた。
「あー……マズイのう……」
フレイアが呟く。
最初の声が近づいてくるにつれて、それが複数人のものである事が分かってくる。
声は言葉として認識できたが、海里には何を言っているのかまでは理解できなかった。今まで聞いた事の無いような言葉だったのである。
ふと思い至る。
「なあ、フレイアよ……さっき、お前、異世界に来て初めてうんぬん……とか、言ってなかったっけ?」
「言ったな」
―――異世界。
普段の海里であれば、それは無いと言っているだろうが、連れ去られる瞬間然り、牢屋を吹き飛ばすあり得ない力然り、納得してもいい、と思ってしまう要素がそろってしまっている。
異世界である。
異国どころの騒ぎではない。国境は愚か、世界の壁すら跨いでしまったのだ。
言葉がわからないのも無理からぬことだ。
だが、声の主達がやってきた理由はわかる。罪人が捕えられていた牢屋が吹き飛んだのだ、彼らにとってはこの上ない緊急事態である。
そしてこの場合の罪人である海里は、次々に圧し掛かる問題に頭を抱えていた。
「……ホントもう、どうすりゃいいんだ」
ガックリとうなだれる海里。
足音はすぐそこまで迫っていた。
♢♦♢♦♢♦
遠くで何かが爆発するような音が聞こえた。
ほんの一瞬だけそちらに気を取られるが、すぐに思考の外側に追いやられてしまう。
ただ前を向き、城を目指してひた走る。
追手は複数、人通りの少ない路地に迷い込んでしまったのか、人の気配は感じられない。
「クッ……‼」
走るフィオナは後悔に顔を歪めた。
帝国からの宣戦布告は『まだ』なされていない、『まだ』大丈夫だと心の底でそんな事を考えていたのだろう。
だから気分転換に街へ出るなどと、従者の制止を振り切ってまで、こんなキナ臭い時期にそのような愚策をおかしたのだ。
現実はそんなに甘くない。
日が落ちてから城へ戻ろうとすれば、所属も分からぬ男たちが自分を追っているのだと気がついた。
追手が魔法を使えるのが幸か不幸か、近くを動く魔力を感知すれば、相手の動きを多少なりとも把握できる。魔法の原動力になる魔力は誰もが持ち合わせている物だが、魔法を扱う鍛錬を積めば、その質は多かれ少なかれ一般人とは異なってくる。
優秀な魔法使いは音楽家が音の高低を細かく聞きわけるように、個々人の魔力の質を感じ取る事ができるが、フィオナは十分に優秀と言える魔法使いであったのだ。
複数人の魔法を扱える何者かが、常に自分を取り囲むように動いている。
気がつくだけなら、そう難しい事は無かった。
後方からの追手を気にしながら、大通りに出ようと角を曲がる。
「ハッ……ハッ……また……‼」
曲がった先に複数の魔力が移動してきたのを感じ、フィオナは元の道へ引き返した。
大通りに出ようとしては阻止される、先程からこれの繰り返しだ。
動きがわかっても、相手は紛れもなく手練だった。
戻った先にも追手がいるのがわかる。
包囲が狭まってきているのだ。彼らもついに王手をかけてきたのだろう。
フィオナはグッと歯を食いしばり、覚悟を決めた。
正面に人影が見えた。黒い服を着て、口元を布で隠した男だ。目だけが鋭く輝き、標的である彼女を油断なく見据えている。
―――怖い。
一瞬、思考が恐怖に呑まれかけたが、フィオナは追手に向かって一直線に走る。
「水は盃を満たす」
フィオナの口から洩れた一言。
相手は、自分から敵に向かっていく、という彼女の意図をすぐに理解した。
フィオナは吸い込んだ空気を一気に言葉に変えた。
「盃を傾けよ‼」
突如、男の目の前に水で構成された球が現れる。大きさは人を簡単に飲み込めるほど。
魔法である。
目を見開いた男は足を止め、避けるような姿勢を取った。
が、一度発動した術式は、至近距離にいる相手を逃がしてくれるほど甘くはない。
球が膨れ上がり、勢いをつけて破裂する。
「……グ」
くぐもったような声が聞こえたが、それだけだ。
殴りつけるような水の勢いに、男は弾き飛ばされ、フィオナが進むための道を空ける。
いける、とフィオナは思った。
魔法の心得のある自分なら、かろうじて逃げるくらいならできる、と。
だが、ここまでだった。
鋭い風切り音が聞こえ、傍の壁に投擲用の短刀が突き刺さるのが見えた。
石の壁に深々と突き刺ささる、『人を殺すための道具』
彼女にとって初めての死の恐怖。
もし、短刀が直撃していたら。
そう考えた途端に体が硬直する。
きっと、それが彼らの狙いだったのだろう。
今度は音も立てずに一本の縛縄がフィオナの足に絡みつく。
息が止まった。
縛縄は何か魔力的な細工が施されているのだろうか、拘束されたのは足だけのはずなのに、全身をめぐる魔力の制御がきかなくなり、体の自由が奪われる。
「……第二王女の身柄を確保」
そんな呟きが聞こえた。
フィオナは自分の体を支える事も出来ず、壁にもたれかかる。
彼女の眼は気丈にも前を向き、敵を見据えるが、魔法を使うには距離が近すぎた。
足から力が抜け、今度こそ成すすべなくその場に座り込む。もう立ち上がる力も残されていなかった。
「任務完了」
フィオナを取り囲む数人の内一人が、冷めたような声で呟き、彼女の方へ手を伸ばした。
思わず目をつむる。
終わるんだなと、諦めきったような自分の声が頭の中に響いた。
悔しい、泣きそうになる。
でも、どうする事も出来ない。
「運が無いな」
そんな言葉が聞こえる。
思ったよりも若い、先程聞いたものとは違う声だった。
ああ、そうかもしれない、そんな事を考える。
つむった目をさらに固く閉じて、フィオナは悲痛な覚悟を決めた。
「本当に運が無い」
若い声はもう一度繰り返す。
そこでフィオナは気づく。
何故、自分は何もされていないのだろう、と。十分な時間はあったはずなのに。
恐る恐る、ゆっくりと目を開いた。
背中が見える。
黒い服を着た背中。
軍服のような黒い詰襟の服は記憶に新しい。黒い髪が月の光りを反射する。
頭からつま先まで、顔と手以外が全て黒という異質な出で立ちの少年。
生まれてから黒髪の人間を見たのは一度だけだった。
つい昨日の出来事である。
そして、手を伸ばしてきた男が、少年の足元に力無く倒れている事に気づく。
何があったのか、状況を読みとる前に少年がフィオナの方を振り向いた。
横顔と共に見えたのは、底の見えない黒い瞳。フィオナは目を離せず、ただ静かにじっとしている事しか出来なかった。
彼の眼が彼女を見据える。
無感動に、無表情に、まるで別の世界の住人のような異質な気配をともなって、彼はゆっくりと口を開く。
「俺も、君も、こいつも」




