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もう、悪役令嬢になんかなりたくない

挿絵(By みてみん)


 翌朝。


 父の部屋へ薬を持っていくと、薄い朝日が寝台まで差し込んでいた。


 かつて領内を馬で駆け、不作の年には自ら泥に入り、領民と同じ釜の粥を食べた男は、今では一人で身体を起こすことさえ難しい。


「お薬です、お父様」


「ああ」


 エレオノーラは痩せた背へ腕を回して身体を起こし、薬を飲ませてから再び枕へ横たえた。


 父はしばらく静かに呼吸を整えていた。


「……この薬は」


「はい?」


「前のものとは違うな」


 エレオノーラの指が止まる。


「ええ。お医者様が、こちらの方がよく効くと」


「高いのだろう?」


「少しだけですわ」


 父は娘の顔を見た。


「エレ。その金は、どこから出ている?」


 父の問いに、一瞬、答えられなかった。


 鏡の前で白粉を塗る姉。赤い口紅。古びた外套。


 そして昨日、自分が握って帰った賞金証書。


 エレオノーラは笑った。


「お父様が救った領民の方々が、良くしてくださっているんです」


「……あの者たちが?」


「はい。少しずつですが、昔のお礼だからと」


 父はしばらく黙っていた。


「まだ、自分たちの暮らしだって楽ではないだろうに」


「皆様、お父様には恩がありますから」


 嘘だった。


 この薬を買ったのは、昨日エレオノーラが持ち帰った賞金だ。その前は、クラウディアが夜の街から持ち帰った銅貨だった。


「……そうか」


 父が小さく息を吐く。


「皆、元気でいてくれるなら……それでいい」


「はい」


「すまないな。お前たちには苦労をかける」


「苦労なんてしていませんわ」


 反射的に答えると、父は少しだけ笑った。


「そうか」


 やがて瞼が閉じる。


「……そうか」


 ほどなく、それは穏やかな寝息へ変わった。


 エレオノーラは眠る父の胸元まで、そっと毛布を引き上げた。


 真実を告げることなど、できなかった。


◆


 それから、勝てば金が入った。


 父には以前より良い薬が届き、クラウディアには王都の医師を呼べるようになった。


 だが、競技を続けるにはARPが要る。


 あの四百三十六も、兵装を使うたび減っていく。試合を重ねれば、いずれ尽きる。


 補うには、また誰かを傷つけなければならなかった。相手を傷つける意図と、実際の損害。その両方がなければ、術式は反応しない。


 茶会の招待状を皆の前で配り、一人にだけ渡さなかった。


 +18。


 新調したばかりのドレスを、大勢の前で似合わないと言った。


 +27。


 それでも、まだ足りない。


 ある日の午後。


「婚約者様とは、最近いかがですの?」


 エレオノーラの前には、一人の令嬢が座っていた。


 名前はリネット。少し前から婚約者の態度がよそよそしいと悩んでいる。


 そしてエレオノーラは、その婚約者が別の令嬢へ花を贈っていることを知っていた。


「リネット様」


「なあに?」


 まだ笑っている。


「先日、あなたの婚約者様がセシリア様へ薔薇を贈っておりましたわ」


 笑顔が固まった。


「……仕事のお付き合いでしょう?」


「二人だけで観劇にも行かれたそうです」


「……」


「それも、一度ではありません」


「もういいわ」


 声が震えた。


 ここで止められる。


 それでも。


「おそらく、あなたが考えているより――」


「もういいって言ってるでしょう!」


 リネットが立ち上がり、そのまま走り去った。


 +92 ARP。


 その夜、エレオノーラは吐いた。


 翌朝。


「昨日はね、ぐっすり眠れたわ」


 白粉を塗っていないクラウディアが、食堂で紅茶を飲んでいた。


「朝までほとんど目が覚めなかったの。こんなに眠れたの、いつ以来かしら」


 少し嬉しそうに笑う。


「ありがとう、エレ」


「……はい」


 昨日、自分が泣かせた少女の顔が浮かんだ。


 誰かを泣かせれば、姉が眠れる。


 誰かの心を傷つければ、父の薬が増える。


 まるで他人の不幸を持ち帰り、自分の家の幸福へ換金しているようだった。



◆



 ある午後、学院の廊下で以前傷つけた少女とすれ違った。


「ごきげんよう」


 声をかけただけだった。


 少女は壁際へ飛び退いた。


「ご、ごめんなさい!」


「え?」


「今日は何もしてません。本当に、何も……!」


「待ってください。わたくしは――」


 一歩近づいただけで、少女は逃げた。


 その日の練習へ、エレオノーラは行かなかった。



◆



 学院裏の温室。


 夜の雨が硝子を叩いていた。


「見つけましたわ」


 ヴィクトリアが入ってくる。


「帰ってください」


「明日は予選の準決勝です」


「出ません」


「そう」


 あまりにも簡単な返事だった。


「私、もう誰も傷つけたくない!」


 薔薇の鉢植えが並ぶ温室に声が響いた。


「勝つたび誰かが泣いて、ARPが増えるたびに誰かがおかしくなって! それなのに家へ帰れば、お父様のお薬が増えているんです! お姉様が自分のベッドで眠っているだけで、嬉しくて仕方ないんです!」


 涙が頬を伝う。


「でも、その薬と夜を買っているのは、わたくしが誰かを泣かせたお金なんです。最近は、人を見るたびに考えるようになりました。この人なら、どこを傷つければ一番ARPが出るんだろうって!」


「エレオノーラ」


「人の痛みが分かることが、こんなことのために使われている。そんな自分が嫌なんです! もう……悪役令嬢になんかなりたくない!」


 パシン。


 平手の音が、雨音を割った。


 頬が熱い。


 ヴィクトリアの右手が、エレオノーラを打っていた。


「甘ったれるんじゃなくてよ!」


「わたくしは、もう辞めたいと言っているんです!」


「聞こえています!」


「だったら、辞めさせてください!」


「わたくしの許しなど要りません!」


 エレオノーラは、打たれた頬を押さえた。


「先生が……悪役令嬢になれと、おっしゃったんでしょう」


「ええ。あなたに才能があると知って、この競技へ誘ったのはわたくしです」


 ヴィクトリアは振り上げた手を下ろした。


「ですが、続けるかどうかまで、わたくしに決めさせてはいけません」


「……辞めても、いいんですか」


「お辞めなさい。あなたがそう決めるなら。ただし、辞めればベアトリスの席が埋まるわけではありません」


 雨が硝子を叩いた。


「続けて勝ったところで、同じです。あなたがどれほど苦しもうと、あの方を傷つけた事実は変わりません」


「では、わたくしは……どうすればいいんですか」


「まず、忘れないことです」


 ヴィクトリアの声がわずかに震えた。


「ベアトリス・ハインツの名前を覚えていなさい。あなたを見て逃げた少女の顔を覚えていなさい。自分が口にした言葉を忘れないでいなさい!」


「そんなの、苦しいだけじゃありませんか!」


「そうです!」


「それを一生背負えと言うんですか!」


「少なくとも、自分から捨ててはいけません!」


 しばらく雨音だけが続いた。


「わたくしも昔、忘れようとしました。競技なのだから仕方がなかった。そう言い聞かせれば、随分と楽でしたわ」


 ヴィクトリアの薄い唇が、自嘲するように歪む。


「人を傷つけたことに、自分まで痛まなくなったとき。そのとき、本当に悪女になるのです」


 やがてヴィクトリアは目を伏せた。


「……それと、先ほど叩いたことは謝ります」


「今ですの?」


「今です」


「お話を聞くだけなら、叩かなくてもできますわ」


「……ええ」


「次は、言葉でおっしゃってください」


「そういたします」


 エレオノーラは鼻をすすった。


「今夜は、お帰りなさい」


 ヴィクトリアは扉へ手を掛けた。


「あとは自分で決めなさい」


◇


 温室を出たヴィクトリアは、人気のない廊下で柱へ手をついた。


 咳が一度、二度。


 白いハンカチを口元へ押し当てると、純白の布に紅い薔薇の花弁のような染みが広がった。


 ヴィクトリアはそれを折り畳み、懐へ戻した。


「……立ち上がりなさい、エレオノーラ」



◆



 その夜、屋敷へ戻ったエレオノーラは、クラウディアの部屋の前で立ち止まった。


 扉が少し開いている。


 姉が眠っていた。


 白粉を塗っていない。口紅もない。外套は椅子に掛かったまま。


 以前なら、この時間には家にいなかった。


 今は、誰にも触れられず、誰にも値段を付けられず、ただ静かに眠っている。


 ――こんな顔を見たら、戦うしかない。


 そこまで考えて、首を振った。


 違う。


 クラウディアは戦えとも、金を稼げとも、自分を救えとも言っていない。


 エレオノーラは部屋へ入り、ずれていた毛布を姉の肩まで引き上げた。


「……もう少しだけ、やってみますわ」


 返事はない。


 翌朝。


 練習場へ入ったヴィクトリアを、黄金の縦ロールを巻いたエレオノーラが待っていた。


「……来ましたのね」


「はい」


「お姉様のため?」


 エレオノーラは少し考え、首を振った。


「それだけではありません。今度は、わたくしが決めました」


 ヴィクトリアは扇を開いた。


「では停止訓練、千五百本」


「昨日より五百本も増えておりますわ!」


「昨日は休みましたでしょう?」


「だからといって増やしすぎです!」


「お嫌ならお帰りなさい」


「やります!」


「よろしい。では――回しなさい!」


◆


 そして現在。


 準決勝を勝ち抜いたエレオノーラは、最後の一戦に立っていた。


 王国悪役令嬢選手権《グランド・ヴィレネス・トーナメント》女学院予選決勝。


 残存ARP、十二。


 正面には髪上戦列艦(ドレッドノート)を戴くアーデルハイト。


 エレオノーラは両腕を揃え、黄金の螺旋を正面へ突き出した。


 十二でも、届かせる。


 だが、回転は上がりきらなかった。撃ち込まれた砲弾を弾いた瞬間、右の螺旋が大きくぶれ、肩まで痺れが突き抜ける。


 踏み出しかけた足が、大理石を擦った。


 砲弾一発を弾くのが精一杯。あの艦首の装甲へ食らいつけば、止められる。残りを振り絞っても、その先までは穿てない。


 ドリルの回転を落とした。


 もう一度、誰かを傷つけなければ。


挿絵(By みてみん)

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