嬉しくて、ごめんね……
翌朝。
エレオノーラは、その言葉が比喩でも冗談でもなかったことを思い知った。
「顎をお上げなさい!」
「十二キロも頭へ載っておりますのよ!」
「たった十二キロです!」
「十二キロを『たった』と言う淑女を、わたくし初めて見ましたわ!」
「悪役令嬢は髪型に負けません!」
「これは髪型ではなく武具です!」
「その通り!」
「認めるんですの!?」
鉄芯入り縦ロールを装着したまま大階段百往復。ハイヒールでの重心移動、扇子投擲、紅蝶爆花の投擲訓練。高速移動したあと、紅茶を一滴もこぼさず停止する制動訓練まである。
高笑いは一日千本。
「おーっほっほっほっほ……!」
「声が小さい!」
「九百回を超えておりますわよ!」
「九百回程度で喉を潰してどうします!」
「普通の淑女は九百回も高笑いしません!」
「普通がお望みならお帰りなさい!」
「意地でも千回やって差し上げますわ!」
初めて天空円舞を起動した日は、そのまま頭から天井へ突っ込んだ。
「先生! 人はパニエでは飛びません!」
「今、実際に飛びましたわ」
「墜落したんです!」
「でしたら、次は着地まで優雅におやりなさい」
「そういう問題ではございません!」
だが、ヴィクトリアが最も厳しく教えたのは攻撃ではなかった。
止めることだった。
夜の練習場で、両腕へ縦巻穿孔兵装を装着する。
「回しなさい」
黄金の螺旋が唸る。
「もっと」
「これ以上は制御できません!」
「もっとです」
「危険ですわ!」
あまりの回転に身体が引かれ、その場に踏み留まっているだけでも精一杯だった。
その正面へヴィクトリアが立つ。
「危ないです、先生!」
「では、それをお止めなさい」
「は?」
「今です」
「無理です!」
「止めなさい」
「このままでは、先生を巻き込みます!」
「ならば、なおさら止めなさい!」
一歩も退かなかった。
「あなたはベアトリス・ハインツへ最初の一言を放ったとき、効いたと分かったのでしょう!」
「……はい」
「そこで止められた!」
「はい!」
「それでも止めなかった!」
「……はい!」
「ならば覚えなさい! 傷つけるだけなら、魔獣にもできます!」
その言葉が、胸の奥まで突き刺さった。
「けれど、あなたは淑女でしょう!」
「……!」
「力を持つことと、それを最後まで使い切ることは同じではありません! どこまで使うのか、どこで止めるのか――最後の一回転まで自分で決めなさい!」
高速回転する黄金の螺旋。その先にはヴィクトリアの眉間がある。
「止めなさい、エレオノーラ!」
「止まれぇぇぇッ!」
腕が軋む。
一回転。
半回転。
四分の一。
螺旋は、ヴィクトリアの額から指一本のところで停止した。
エレオノーラはその場へ膝をつく。
「……できました」
「ええ」
「少しくらい褒めてくださっても?」
ヴィクトリアは止まった螺旋へ白手袋の指を添えた。
「強い者とは、出せる力が大きい者ではありません。出してしまった力を、それでも最後に自分の意思で止められる者です」
翌日も、その翌日も、回して止めた。
本番で一度止めるために、練習では千回止める。
それがヴィクトリアの教えだった。
◆
初めて公式戦の入場門へ立った朝、エレオノーラは自分の膝が震えていることに気づいた。
練習では何度も武器を振るった。けれど、その先に立っていたのはヴィクトリアだった。今から戦うのは、こちらを倒すために武器を振るってくる見知らぬ令嬢である。
「怖いですか?」
隣でヴィクトリアが訊いた。
「……はい」
「結構」
「そこは励ますところではありませんの?」
「怖くなくなったら、わたくしが引きずり下ろします。怖いまま行きなさい。それでも勝ちたいのでしょう?」
父の薬瓶と、夜の外套を羽織る姉が浮かぶ。
「……はい」
鐘が鳴った。
対戦相手は、ミレーユ・バルザック男爵令嬢。大振りな鉄扇を両手に持ち、開始と同時に真正面から突っ込んできた。
「新人だからって容赦しませんわよ!」
「望むところ――きゃあっ!」
言い終わる前に鉄扇が顔の横を抜けた。
「ちょっと! 本当に殴りますの!?」
「競技ですもの!」
「それはそうですけれど!」
観客席から笑いが起きる。
エレオノーラは慌てて天空円舞を起動したが、恐怖で身体が固くなり、練習ほど高く飛べない。
そこへ鉄扇が迫った。
反射的に縦巻穿孔兵装を回す。
黄金の螺旋がミレーユへ向いた。
あと少し踏み込めば、肩を抉る。
『……可哀想な方』
ベアトリスの顔が浮かんだ。
エレオノーラの足が止まる。
「何を――」
「っ!」
身体を捻り、ドリルの軌道を変えた。
黄金の螺旋はミレーユの肩ではなく、右手の鉄扇だけを巻き込む。火花とともに蝶番が砕け、扇が空を舞った。
「武器だけを……?」
そこからエレオノーラは、相手の腕ではなく武器を狙い、脚ではなくドレスの裾を切った。最後は左の鉄扇を破壊し、その勢いのままミレーユを場外へ追い込む。
「勝負あり! 勝者――エレオノーラ・アルヴェイン!」
場外へ戻ると、ヴィクトリアが待っていた。
「随分と不格好でしたこと」
「初勝利した弟子への第一声がそれですの?」
「ですが」
黒い扇が閉じられる。
「よくやりましたわ」
エレオノーラは少しだけ目を伏せた。
その日の夕方、手には生まれて初めて自分で得た賞金証書があった。
◆
屋敷へ帰ると、クラウディアは鏡台の前にいた。
白粉。赤い口紅。古びた外套。
いつもの夜の支度だった。
「お姉様」
「おかえりなさい。試合は?」
「勝ちました」
口紅を持つ手が止まる。
エレオノーラは賞金証書を差し出した。
「これだけ、いただけました」
クラウディアは金額を長いこと見つめていた。
「お父様のお薬が買えます。お姉様のお医者様も呼べますし、学院のお金も払えます」
「……そう」
エレオノーラは姉の指からそっと口紅を取り、外套を椅子から下ろして丁寧に畳んだ。
「だから、今夜は行かなくていいんです」
「でも、明日は?」
「明日の分もあります」
「次のお薬は?」
「買えます」
一つ答えるたび、姉の声が小さくなった。
「だから、今夜は誰にも買われなくていいんです」
クラウディアの唇が震える。
「……本当に?」
「はい」
「今夜は……行かなくてもいいの?」
「はい」
白粉を塗った頬を、涙が一筋流れた。
「よかった……」
その声は、途中から泣き声に変わった。
今夜は知らない男についていかなくていい。病んだ身体を値踏みされなくていい。安い女だと笑われることもない。
「ごめんね……」
「どうして謝るんですか」
「だって、あなたが誰かを傷つけて、そのお金を持って帰ってきたんでしょう?」
エレオノーラは答えられなかった。
「それに……あなたが平気なわけないじゃない。昔から、誰かが泣いているだけで一緒に泣いてしまうような子だったもの。そんなあなたが人を傷つけて、自分だけ傷つかないわけがないでしょう」
クラウディアは妹の服を掴んだ。
「あなたが誰かを傷つけるたび、その人だけじゃなくて……あなたまで傷ついて帰ってくるんでしょう?」
「お姉様……」
「それなのに私、嬉しいの。今夜は誰にも買われなくていいって思ったら、嬉しくて、ほっとして……」
細い腕が背中へ回る。
「嬉しくて、ごめんね……」
クラウディアは、そのまま妹の胸で泣いた。
エレオノーラは何も言わず、姉の髪を撫で続けた。
――勝って、よかった。
その思いだけが、胸に残った。




