悪役令嬢になりなさい
王立女学院大舞踏場に、二十四門の砲声が轟いた。
「いつまで逃げ回るおつもり、エレオノーラ・アルヴェイン!」
爆煙の向こうで、アーデルハイト・フォン・グランツ侯爵令嬢が黒檀の扇を振り下ろす。
見る者を圧倒するのは、その髪型だった。額から高々とそびえる巨大なポンパドゥール。その頂には三本煙突と二十四門の砲塔を備えた装甲戦列艦が鎮座し、艦首にはグランツ侯爵家の双頭鷲が翻っている。
髪上戦列艦。
もちろん模型ではない。実戦兵装である。
磨き抜かれた大理石が震え、天井から垂れる水晶のシャンデリアが、怯えた星々のように一斉に煌めく。本来なら絹のドレスと香水、優雅なワルツに満たされる場所だったが、今では床のあちこちに砲弾の痕が穿たれ、金箔の壁を硝煙が這っていた。
「全門――斉射!」
二十四の砲口が火を噴いた。
「天空円舞!」
エレオノーラが桃色のスカートをつまみ上げると、その内側から十二本の鋼鉄製パニエが花弁のように展開した。甲高い駆動音とともに高速回転を始め、幾重ものレースが風を孕む。
華奢な身体がふわりと宙へ浮いた。一発目を右へ、二発目を上へかわし、三発目の砲弾が裾を掠めて桃色の布片を薔薇の花びらのように散らす。
「空ばかり気になさっていて、よろしくて?」
アーデルハイトは髪飾りから真紅の蝶結びを四つ抜き取った。その中心に赤い光が灯る。
「紅蝶爆花!」
「そんなものまでお持ちですの!?」
四つのリボンが優雅に舞い、その直後、爆炎が咲いた。
鋼鉄のパニエが悲鳴を上げ、エレオノーラの身体が空中で弾き飛ばされる。大理石へ肩から叩きつけられ、肺から息が抜けた。
観客席から悲鳴が上がる。それでも白手袋の指は床を掴み、エレオノーラは身を起こした。
頭上へ測定術式が展開する。
残存ARP――12。
悪役令嬢ポイント――ARP。
他者へ与えた精神的、あるいは社会的損害を王国術式が判定し、その一部を競技用の力へ変換する仕組みだ。ただ悪口を言えば増えるわけではない。互いに申し合わせた罵倒や、傷ついたふりでは反応しない。
本当に誰かの心を傷つけたときだけ、数字は増える。
だからこそ、この競技は華やかで、美しく、そして残酷だった。
悪役令嬢競技。
王国の上流社会で長い歴史を持つ、淑女たちの決闘競技である。場外、降参、あるいは残存ARPの喪失で勝負が決まる。
兵装に蓄えたARPも残存量に数えられる。ただし、動力として使った分は消え、兵装ごと破壊されれば、蓄えた分も失われる。
「十二ですって?」
アーデルハイトが眉を上げた。
「その残量で、何をなさるおつもり?」
「あなたを、穿ちます」
「どうやって?」
「残っているものを、全部費やして」
エレオノーラは両肩へ垂れる黄金の縦ロールを掴み、根元の留め具を外して一本ずつ両腕へ装着した。
鋼鉄が噛み合う。
低い唸りとともに、黄金の螺旋が回転を始めた。
縦巻穿孔兵装。
「わたくしには、倒れられない理由があります」
回転が速くなる。
「家には薬を待つ父がいる。そして、病んだ身体へ白粉を塗り、それでも夜になるたび街へ出ていた姉がいる」
黄金の螺旋が咆哮した。
「わたくしが勝てば、今夜も姉は誰にも買われずに済む。十二しかないのなら――その十二を、最後の一滴まで使いますわ!」
◆
三か月前。
エレオノーラ・アルヴェインは、まだ悪役令嬢ではなかった。
二年前まで、アルヴェイン家は王国でも指折りの公爵家だった。
広大な領地を持ち、王都の邸宅では季節ごとに舞踏会が催された。春には庭園を薔薇が埋め、磨き抜かれた銀器を抱えた使用人たちが忙しく廊下を行き交っていた。
転落の始まりは、領地を襲った大不作だった。
当主である父は領民を救い、荒れた土地を立て直すため、新たな交易事業へ巨額の資金を投じた。土地を担保に入れ、屋敷の一部まで抵当に入れたが、成功すればすべてを取り戻せるはずだった。
しかし、送り出した商船団は嵐に呑まれた。
それでも父は諦めず、残された財産をかき集め、債権者のもとを回り、領地と領民の暮らしを立て直そうと昼夜なく働き続けた。
そして、倒れた。
命こそ取り留めたものの、長く床を離れられない身体になった。母はすでに亡くなっている。
残されたのは、病床の父と二人の娘。そして莫大な借財だった。
領地を売り、馬車を売り、宝石を売った。絵画も銀器も、亡き母の嫁入り道具さえ手放し、使用人にも次々と暇を出した。
爵位だけは残った。
だからエレオノーラは、今でも公爵令嬢だった。
名ばかりの、金のない公爵令嬢。
父には薬がいる。医者もいる。食べ物も薪も必要で、エレオノーラの学院の授業料だって払わなければならない。
そして最後に、姉クラウディアは、まだ売っていなかったものを売り始めた。
自分自身を。
◆
「……お姉様。今夜も行くんですか」
クラウディアは鏡台の前で白粉を塗っていた。病で削げた頬へ何度も粉を重ね、失われた血色を赤い口紅で描き直していく。
かつては社交界でも名の知られた美女だった。舞踏会へ出れば男たちが競って手を差し出した、その面影はまだ残っている。
けれど今では鎖骨が痛々しいほど浮き、昔仕立てたドレスには布が余っていた。
「ええ」
「行かないで、お姉様」
「どうして?」
「どうしてって……もう、お身体が限界でしょう」
クラウディアは夜の仕事で病を得ていた。誰から移されたのかさえ、もう分からない。熱が出る。関節が痛む。咳が長く続く。
病を持っていることが知られ、以前のような裕福な客は来なくなった。それでも買う男はいた。港の日雇い労働者、安酒場の酔客、貧民街の住人。時には橋の下で夜を明かすような男が、出所も分からない薄汚れた銅貨を握ってやって来ることもあった。
「昨夜は十二枚だったわ」
「……え?」
「銅貨十二枚。お父様のお薬が一日分と、パンが買えた」
「そんなお金、いりません!」
「私は欲しいわ」
クラウディアの声は静かだった。
「薬屋さんは、昔は公爵家だったからと薬をくださるわけではないもの。パン屋さんだって同じでしょう?」
「だからって、お姉様が……」
「まだ売れるのよ、私」
鏡の中で姉が笑った。
「こんな身体でもいいと言う人がいる。だったら、売れるうちは売るわ」
「怖くないんですか」
「怖いわよ。嫌よ。毎晩、今日は誰にも声をかけられませんようにって思ってる」
「だったら――」
「でも、本当に誰にも買われなかったら、お父様のお薬が買えないの」
何も言えなくなった。
クラウディアは古びた外套を肩へ掛け、立ち上がろうとして大きく身体を揺らした。
「お姉様!」
抱き留めた身体は、ひどく軽かった。
「こんな身体で……」
「大丈夫」
「大丈夫じゃありません!」
「そうね、分かってる」
それでも姉は笑った。
その夜、閉じた玄関扉を前に、エレオノーラは長いこと立ち尽くした。
◆
「まあ。まだその制服をお召しになっていますの?」
数日後、王立女学院の中庭で、ベアトリス・ハインツ伯爵令嬢が扇の陰から笑った。
エレオノーラの制服は三年前のものだった。袖口には姉が繕った跡があり、靴底も二度張り替えている。
「公爵令嬢ともあろう方が、ずいぶん慎ましくなりましたこと」
「ベアトリス様。おやめください」
「あら。事実でしょう?」
取り巻きたちが忍び笑う。
この程度なら、まだ聞き流せた。
「そういえば、お姉様はお元気?」
エレオノーラの指が止まった。
「……姉が、何か」
「夜の街では、随分お安くなったと評判だそうですわね。病持ちでは仕方ありませんけれど」
「おやめください」
「昨日など、橋の下で寝泊まりしているような男と――」
「やめて!」
声が中庭を打った。
ベアトリスは一瞬だけ目を丸くし、それから愉快そうに唇を歪める。
「あら。あなたも怒れるんですのね」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に暗い火が灯った。
姉がどんな気持ちで夜の街へ消えていくのか。白粉を塗る指が震えていることも、買われませんようにと願いながら、誰にも買われなければ困ることも。
何も知らないくせに。
――許さない。
そしてエレオノーラは、ベアトリスの傷を知っていた。
父親が家督を継ぐ弟ばかりを可愛がっていること。父の話になると一瞬だけ目を逸らし、弟を褒められたときだけ扇を握る指が固くなること。
学院で誰より華やかに振る舞い、大勢を従えようとする彼女が、本当に見てほしい相手は一人しかいない。
昔から気づいていた。だからこそ、触れなかった。
人の痛みが分かるから。傷の場所が見えるから、そこには触れない。
けれど今は、その傷へ指を差し込みたかった。
「ベアトリス様。随分と他人のお家の事情にお詳しいんですね。ご自分のお父様は弟君のことでお忙しくて、ろくに構ってくださいませんものね」
笑みが消えた。
「……なんですって?」
効いた。
分かった。
ここで止められた。
それでも、エレオノーラは続けた。
「学院でどれほど人を従えても、どれほど華やかなドレスをお召しになっても、見てほしいたった一人には見てもらえない」
「お黙りなさい!」
「それは、お辛いでしょうね」
「やめて……」
まだ止まれた。
だが、姉を笑ったあの顔が許せなかった。
「……可哀想な方」
ベアトリスの表情から、何かが消えた。
怒りもしない。泣きもしない。ただ瞳の奥から、光だけが失われた。
学院に張り巡らされた王国測定術式が反応する。
+436 ARP
周囲からどよめきが起きた。
傷つけたかった。
それは事実だ。
ただ、ここまで壊れるとは思っていなかった。
翌日、ベアトリスは学院を休んだ。
一週間後も、二週間後も。
窓際の席は空いたままだった。
◆
「四百三十六。実に恐ろしい数字ですこと」
放課後、空席を見つめていたエレオノーラの背後から女の声がした。
振り返ると、黒一色のドレスをまとった細身の女が立っていた。一本の杖を持ち、宝石ひとつ身につけていないというのに、その女がそこにいるだけで教室の空気が張り詰める。
「……どなたですか」
「ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
エレオノーラは目を見開いた。
その名を知らないはずがない。
かつて悪役令嬢競技の頂点に君臨し、歴代最高級のARP記録と数々の優勝を残した競技者。その苛烈さから《史上最悪の悪役令嬢》と呼ばれた女だ。
そして、幼いエレオノーラが初めて憧れた悪役令嬢競技者でもあった。
まだアルヴェイン家が華やかだった頃、父に連れられて見た大舞踏場。舞い散る薔薇と歓声の中央で、豪奢なドレスを翻しながら女王のように高笑いしていた令嬢。
幼いエレオノーラは夢中になり、帰宅するなり亡き母のドレスを引っ張り出して高笑いを真似し、ひどく叱られたことがある。
「……あの、ヴィクトリア・ローゼンベルグ?」
「ほかに何人おりますの?」
エレオノーラは目の前の女をまじまじと見る。
「……本物ですの?」
「失礼ですわね」
「だって、わたくしが子供の頃にはもっと――」
「もっと?」
「……お若くていらっしゃいました」
「引き裂きますわよ?」
「待ってくださいませ!」
ヴィクトリアは小さく鼻を鳴らし、ベアトリスの空席へ視線を向けた。
「素晴らしい才能です」
エレオノーラの顔から笑みが消える。
「何が素晴らしいんですか!?」
「あなたの才能が」
「ベアトリス様は二週間も学院へ来ていないんですよ!」
「存じています」
「だったら!」
「彼女のお名前は?」
予想外の問いに、言葉を失った。
「あなたが傷つけた方のお名前です」
「……ベアトリス・ハインツ様です」
「では、それを覚えていなさい。四百三十六という数字は忘れても構いません。あれはあなたの偉大さを示す数字ではない。ベアトリス・ハインツという一人の令嬢を、あなたがどれほど深く傷つけたのか。その深さを数字にしただけです」
「だったら、どうして才能なんておっしゃるんですか」
「あなたは彼女の傷を知っていた。どこへ刃を入れれば、もっとも深く血が滲むのかまで」
「……そんな才能、いりません」
「ええ。あなたなら、そうおっしゃると思っていました」
「だったら放っておいてください」
「それはできません」
黒い扇が開いた。
「悪役令嬢になりなさい、エレオノーラ・アルヴェイン」
「嫌です」
即答だった。
「人を傷つけることを競うなど御免です。わたくしは、そんなものになるつもりは――」
「金銭が必要なのでしょう?」
言葉が途切れた。
ヴィクトリアは父の薬、姉の稼業、学院の授業料、債権者への利息、冬を越すための薪代まで淡々と並べた。
「どうして、それを……」
「あなたを勧誘するのに、何も調べず参ったとお思い? 悪役令嬢競技には、お金が動きます。それも、あなたが想像しているよりずっと大きなお金が。予選でも一勝すれば賞金が出ます」
「……どのくらいですか」
ヴィクトリアの口元が少し上がる。
「今のお姉様が、何十夜も身体を売り続けてようやく得られる程度です」
白粉。赤い口紅。痩せた肩。
銅貨十二枚。
「……一勝で?」
「ええ」
「たった一度、勝つだけで?」
「勝つことを『たった』と呼べるようになってからおっしゃいなさい」
しばらく黙ってから、エレオノーラは自分から尋ねた。
「……本戦で優勝すれば?」
「金貨八千枚」
息を呑んだ。
「お父様には今より良い薬を使える。お姉様も身体を売る必要がなくなり、王都の専門医をつけられます。借財も返せるでしょう」
「やめてください」
「何を?」
「そんなふうに、簡単に言わないでください」
「簡単ではありませんわ。だから申し上げているのです。あなたには、その頂を取りに行けるだけのものがある」
「人を傷つける才能が?」
「ええ」
否定しなかった。
エレオノーラは空席を見て、それから昨夜の姉を思い出した。
「……もし、わたくしが勝てたなら、お姉様は……もう、あんなことをしなくて済みますか」
「一勝分の賞金があれば、少なくとも当分は、客を探して街へ立つ必要はなくなります」
長い沈黙の末、エレオノーラは尋ねた。
「……何をすればいいんですか」
ヴィクトリアは勝ち誇らなかった。ただ彼女の髪を指さした。
「まず、その髪を巻きなさい」




