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4 進化

レインは静かに素材へ手を伸ばした。机の上には、フォレストディアの魔石と毒蜘蛛の魔石が並べられている。どちらも三階層で苦労して手に入れた貴重な戦利品であり、簡単に使ってしまえるような代物ではなかった。しかし、それでも迷いはなかった。チビはすでにレベル10へ到達している。前回の進化も同じような流れで起きたのだから、今回も試してみる価値は十分にあるはずだった。


「本当に始めるんですね」


リリアはどこか緊張した面持ちで、小さなチビの姿を見つめていた。前回の進化は突然起きた出来事だったため、その一部始終を見届けることはできなかったのである。


「たぶん大丈夫だと思います」


レインはそう答えたものの、その声音にはわずかな不安も混じっていた。進化という現象そのものが、あまりにも未知だったからだ。ただ一つ確かなことがあるとすれば、この力は自分だけのものだということだった。スキルオーブによって得た特殊な能力。それがなければ、チビの進化も起こらなかったはずである。普通のテイマーが従魔を進化させるという話は、一度も耳にしたことがなかった。だからこそ、レインはこの力について誰にも話していない。


「準備はいいか」


「キュ?」


チビは相変わらず状況を理解していない様子で、小さく首を傾げていた。しかし、逃げ出そうとする素振りは見せない。レインを信頼しているからなのか、それとも単に深く考えていないだけなのかは分からなかった。その様子に思わず苦笑しながら、レインは両手を素材へとかざした。すると次の瞬間だった。頭の奥へ、まるで誰かが直接流し込んでくるかのような知識が溢れ出してくる。進化の条件。必要な素材。そして――進化先。


「……今回もあるのか」


思わず漏れた呟きに、リリアが首を傾げた。


「何か見えるんですか?」


「進化先……でしょうか」


レインは戸惑いながら答えた。以前、チビが進化した時にも同じことが起きている。だからこそ、今回も特別なことだとは思わなかった。進化とはこういうものなのだろう。レインは自然とそう考えていた。


「進化先って、自分で選べるんですか?」


「たぶん……そういうものなんだと思います」


少し曖昧な返答になったのは、比較できる相手が存在しないからだった。他のテイマーが進化させる場面を見たことはない。そもそも、他人が従魔を進化させるという話自体を聞いたことがなかった。だからこそ、これが普通なのか特別なのか判断できなかったのである。リリアもまた、そういうものなのだと納得したように頷いていた。二人とも、この時点では気付いていない。複数の進化先が現れること。素材によって特殊な進化先が増えること。それらは決して当たり前ではないということに。レインは頭の中へ浮かび上がる候補へ意識を向けた。一つ目は《ヘビーシャドーラット》。シャドーラットの正統進化とも言える存在であり、闇への適性と身体能力をさらに高める堅実な進化先だった。二つ目は《ヴェノムラット》。毒蜘蛛の特性を取り込んだ特殊な進化先であり、毒への耐性や新たな能力を得られる可能性がある。さらに別の候補も存在していた。《ナイトシャドウ》。《シャドウストーカー》。どれも聞いたことのない名前ばかりであり、その詳細までは理解できない。


「ずいぶん多いんですね……」


リリアが驚いたように呟いた。


「前もこんな感じだったので、進化ってこういうものなんだと思います」


レインは特に疑問を抱くことなく答える。前回も複数の候補が存在していた。今回も同じだった。だからこそ、それが普通なのだと考えていたのである。チビだけが特別だなどとは、夢にも思っていなかった。レインは候補を一つずつ見比べていく。正統進化を選べば、安定して力を伸ばせるだろう。しかし、特殊進化には心を惹かれる何かがあった。今しか選べないかもしれない。次も同じ候補が現れる保証はない。そして何より。


「チビらしいのは、こっちかな」


レインは小さく笑った。


「ヴェノムラットでいきます」


その言葉を合図にするかのように、机の上の魔石が一斉に輝き始めた。フォレストディアの魔石が柔らかな緑色の光を放ち、毒蜘蛛の魔石からは妖しく揺らめく紫色の輝きが溢れ出していく。二つの光は混ざり合いながら部屋の中を照らし出し、その眩しさにリリアは思わず目を細めた。


「始まった……」


リリアの声には、隠しきれない興奮が滲んでいた。チビも異変に気付いたらしく、慌てた様子で飛び退こうとする。


「キュッ!?」


しかし、素材から伸びた光は逃がさない。黒紫色の輝きが小さな体を包み込み、そのまま宙へと浮かび上がらせた。


「キュウッ!?」


戸惑うような鳴き声が響く中、レインは固唾を呑みながらその様子を見守っていた。進化の知識はあっても、実際に見るのはまだ二度目だった。大切な相棒が光の中へ飲み込まれていく光景には、どうしても不安を覚えてしまう。時間にすれば数秒程度だったのだろう。しかし、その瞬間は永遠にも等しく感じられた。やがて、激しく渦巻いていた光が少しずつ収束を始める。黒紫色の輝きが静かに薄れていき、部屋の輪郭が再びはっきりと見えるようになった。レインは無意識に息を止めていた。リリアもまた、レインの袖をそっと握り締めている。そして――。光が弾けるように消え去った。静寂に包まれた部屋の中央で、小さな影がゆっくりと姿を現す。レインとリリアは、同時にその姿へ視線を向けた。そこにいたのは、光の中へ消えていったはずのチビだった。


「……あれ?」


思わず漏れたレインの声には、困惑がはっきりと滲んでいた。目の前にいるチビの姿は、進化前と比べても大きく変わったようには見えなかったのである。耳の形も以前とほとんど変わらず、赤い瞳の輝きも見慣れたままだった。小さな体つきにも劇的な変化はなく、一見しただけでは進化したと言われても信じられないほどだった。当のチビは何事もなかったかのように床へ降り立つと、不思議そうな様子で自分の体を見回し始めた。


「キュ?」


首を傾げながら前脚を持ち上げたり、くるりとその場で回ったりしている姿は、いつものチビそのものである。やがて何かを思い出したように尻尾を振り始めたものの、その仕草にも以前との大きな違いは感じられなかった。しかし、注意深く観察していたレインは、少しずつ細かな変化に気付き始める。以前よりも尻尾がわずかに太くなっており、長さもほんの少しだけ短くなっていた。さらに黒い毛並みには以前より艶が増しており、触れれば指先が沈み込みそうなほど柔らかく長くなっているようにも見えた。もっとも、それらは意識して見比べなければ気付かない程度の変化に過ぎない。


「本当に……進化したんでしょうか?」


リリアは戸惑った表情を浮かべながら、チビの周囲をぐるりと回って観察していた。


「したとは思うんですけど……」


レイン自身も自信があるわけではなかった。前回の進化では、灰色だった毛並みが黒く染まり、誰の目から見ても別種の魔物へ変わったことが分かるほどの変化があった。しかし今回は違う。母親が見たとしても、おそらく「少し毛並みが良くなった」としか思わないだろう。父親に見せたとしても、「よく食べて大きくなったんじゃないか」と笑われる程度の変化しかないはずだった。それほどまでに、今回の変化は微細だったのである。


「キュッ」


チビはそんな二人の様子を気にも留めず、嬉しそうに机の上へ飛び乗った。そして誇らしげに胸を張ると、進化したことを自慢するように尻尾を大きく揺らしてみせる。その様子を見て、レインは思わず苦笑を浮かべた。見た目だけを比べれば、以前との違いはほとんど分からない。それでも、レインには確信できることがあった。チビの存在そのものが、確かに以前とは違っている。胸の奥に残る繋がりの感覚が、それをはっきりと伝えていた。前回の進化を経験した時と同じように、チビの内側には新たな力が宿っている。目に見える変化は小さかったとしても、その本質は確実に一段階上へ進んでいた。


「たぶん、ちゃんと進化しています」


レインがそう呟くと、リリアもようやく小さく頷いた。


「見た目より、中身の変化が大きいのかもしれませんね」


「そうかもしれません」


二人がそんな会話を交わしている間にも、チビは得意げな表情で部屋の中を駆け回っていた。どうやら本人にとっては、細かな違いなど大した問題ではないらしい。進化できたこと自体が嬉しいのか、ベッドへ飛び乗ったかと思えば、次の瞬間には棚の上へ移動している。


「キュッ!」


どこか自慢げな鳴き声が部屋へ響く。その姿を見つめながら、レインは小さく笑みを浮かべた。見た目はほとんど変わらない。それでも、チビは確かに成長している。森で出会ったばかりの頃は、ただの小さなネズミだった。しかし今では、自分の隣で共に戦う大切な仲間になっている。今回の進化によって得た力が何なのかは、まだ分からない。それでも、これから一緒に確かめていけばいい。そう思えるだけの信頼が、レインとチビの間にはすでに築かれていた。

中身は確実に別物になっていた。

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