11 ダンジョンウルフ
巨大雲は轟音と共に巨大蜘蛛の身体が地面へ崩れ落ちた。
広間に静寂が戻る。
レインは荒く息を吐きながら、短剣を構えたまま巨大蜘蛛を見つめていた。
「……倒した、んでしょうか」
リリアが周りの蜘蛛を警戒したまま慎重に声をかける。
「たぶん……」
レインが答えかけた、その時周囲から一斉に小さな物音が響いた。
カサカサカサ――。
先ほどまで周囲を埋め尽くしていた小型の蜘蛛たちが逃げている。
それまで統率されていたかのようにダンジョンウルフへ群がっていた蜘蛛たちは、巨大蜘蛛が倒れた途端、我先にと広間の隅へ散っていく。
「逃げてますね」
「はい……ひとまず何とかなったようですね」
リリアも少し驚いたままだったが一呼吸して頷いた。
荒い息を吐きながら、レインは巨大蜘蛛の亡骸を見下ろした。
通常の蜘蛛型魔物とは明らかに違う存在感を放っている。胴体だけで成人男性ほどもある巨体は、死してなお圧迫感を残していた。その隣では傷だらけのダンジョンウルフが警戒するようにこちらを見ている。だが先ほどまで向けられていた敵意は感じられなかった。レインはゆっくりと短剣を下ろし、敵意がないことを示す。するとダンジョンウルフも小さく鼻を鳴らした。
「消えますね……」
リリアが呟く。巨大蜘蛛の体は灰となって崩れ落ち、やがて完全に姿を消した。その場に残されたのは二つ。拳よりも一回り大きな、深い紫色をした魔石。そして、銀糸のような光沢を持つ糸の束だった。
「これは……」
レインは慎重に糸を持ち上げる。見た目は細い。しかし指で軽く引いても、びくともしなかった。
「かなり丈夫ですね」
「防具素材かもしれません」
リリアも興味深そうに覗き込む。巨大蜘蛛が残した糸は、普通の蜘蛛型魔物から採れるものより遥かに質が高そうだった。そして魔石もまた異質だった。これまで三階層で手に入れたどの魔石よりも大きく、内部には濃密な魔力が渦巻いている。
「これは高く売れそうですね」
「上位個体なら、かなり期待できるかもしれません」
リリアの言葉に、レインは魔石を革袋へしまった。だが、その視線はすぐに別の方向へ向く。少し離れた場所で、傷だらけの若いダンジョンウルフがこちらを見つめていた。周囲には、既に魔石へ変わってしまった仲間たちの痕跡が残っている。その金色の瞳には警戒だけではない、戸惑いの色が浮かんでいた。なぜ助けられたのか。どうして見捨てなかったのか。そんな疑問を抱いているようにも見えた。
チビもまた、狼をじっと見上げている。赤い瞳と金色の瞳が静かに交差した。やがて狼は、ゆっくりと一歩を踏み出す。警戒を解いたわけではない。それでも確かな意思を持って、レインたちの方へ歩き始めた。
レインは地面へ膝をつき、なおも警戒を解いていないダンジョンウルフへ静かに視線を向けた。蜘蛛の群れとの戦いを終えたばかりの狼は、全身に無数の傷を負っている。それでも金色の瞳には鋭い光が宿り、こちらへ向けられた牙にも衰えは感じられなかった。すぐにでも飛びかかれるよう身構えているのは、それだけ長く危険の中で生きてきた証なのだろう。助けられたからといって簡単に他者を信じられるほど、この狼が歩んできた道は穏やかなものではなかった。その姿を見ても、レインは無理に近付こうとはしなかった。
「……無理に信じろとは言わない」
ゆっくりと掌を見せながら、小さく言葉を続ける。
「でも、僕たちはお前を傷付けるつもりはない」
ダンジョンウルフの耳がわずかに揺れた。言葉を理解しているのか、それとも声の調子を聞いているだけなのかは分からない。それでも、その視線はレインから逸れなかった。少し離れた場所では、リリアも静かに様子を見守っている。無理に近付けば失敗することは、二人とも理解していた。しばらくの沈黙の後、ダンジョンウルフが小さく鼻を鳴らした。血の匂い。薬草の匂い。そして、レインたち自身の匂い。まるで相手を見定めるように、何度も空気を吸い込んでいる。やがて狼はゆっくりと立ち上がろうとした。しかし次の瞬間、傷付いた前脚が大きく震え、その巨体が傾いた。
「危ない!」
反射的にレインが手を伸ばす。支えられたダンジョンウルフは一瞬だけ牙を見せたものの、それ以上の抵抗はしなかった。その瞬間だった。レインの胸の奥で、何かが熱を帯びる。まるで誰かと繋がろうとするような、不思議な高揚が胸の内側から広がっていく。
「え……?」
驚いた声を漏らしたのはリリアだった。レインの掌から淡い光が溢れ出し、糸のように伸びながらダンジョンウルフの体を包み込んでいく。やがて二人の足元へ巨大な魔法陣が広がり、青白い光で描かれた複雑な紋様が幾重にも重なっていった。その内側では古代文字のような模様がゆっくりと回転し、静かな三階層の空気を震わせている。
レイン自身も、こんな現象を見るのは初めてだった。しかし本能的に理解できた。
これは契約だ。テイマーとしての力が、形となって現れている。ダンジョンウルフも異変に気付いたらしい。咄嗟に身を引こうとしたものの、満身創痍の体では思うように動けない。その時、光の中へ取り込まれた狼の感情が、突然レインの胸へ流れ込んできた。飢えや痛みだけではない。何度も積み重ねてきた喪失の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。巨大蜘蛛達に遭遇した場面。仲間の匂いが一匹、また一匹と消えていった瞬間。簡単に誰かを信じることなどできない。助けられたからといって従うほど、狼としての誇りは安くなかった。だが、その感情の奥底には疲弊もあった。今の傷では、この先を一匹で生き延びられる保証はない。蜘蛛の群れを退けたとしても、次の魔物に襲われれば終わるかもしれない。一匹で生きることの限界を、ダンジョンウルフ自身も理解していた。だからこそ迷っていたのだ。目の前の人間を信じるべきなのか、それとも拒絶し続けるべきなのか。牙を剥いたまま孤独を選ぶのか、それとも別の道を受け入れるのか。その答えを決めかねていることが、痛いほど伝わってきた。一方で、レインもまた、自分の思いが流れ出ていることに気付いていた。利用したいわけではない。命令したいわけでもない。ただ、一緒に生き残り、背中を預け合える仲間が欲しかった。もし嫌なら無理に繋ぎ止めたりはしない。それでも、生きたいと思うなら。一緒に来ないか。言葉にならない想いが、光を通して静かに伝わっていく。ダンジョンウルフはなおも迷っていた。金色の瞳がレインを見つめる。その視線には警戒と疲労、そして僅かな戸惑いが入り混じっていた。長い沈黙が流れる。やがてダンジョンウルフはゆっくりと首を垂れた。それは服従でも敗北でもなく、ダンジョンウルフが自らの意思で選び取った答えだった。差し出されたレインの掌へ、ダンジョンウルフがそっと鼻先を寄せる。その瞬間、魔法陣全体が一際強い光を放った。レインの胸から伸びた光と、狼の胸から伸びた光がゆっくりと重なり合う。空気が震え、静寂に包まれていた三階層へ魔力の波が広がっていった。そして。パリン、と。ガラスが砕けるような音と共に、眩い光が消える。静寂が戻った。レインは荒い息を吐きながら、その場へ座り込んだ。全身から力が抜けていくような感覚があったが、胸の奥には確かな繋がりが残っている。ダンジョンウルフがゆっくりと顔を上げた。先ほどまでの敵意は消えている。それでも完全に気を許したわけではない。警戒は残っていたが、その瞳には確かな信頼の芽が宿っていた。大きな頭が静かに差し出される。レインは恐る恐る手を伸ばした。ダンジョンウルフの体がわずかに強張る。しかし振り払われることはなかった。撫でる手を拒まない。それだけで十分だった。
「テイム……したんですか?」
リリアが戸惑った声で尋ねる。レインはダンジョンウルフの毛並みを撫でながら、小さく笑った。
「たぶんそうじゃないですね」
ダンジョンウルフは逃げない。それどころか、撫でられるまま静かに目を細めていた。
その様子を少し離れた場所から見ていたチビが、ぴょんと飛び上がった。新しい仲間へ近付いていく。ダンジョンウルフも足を止め、小さな黒いネズミへ視線を向けた。しばらくの間、互いにじっと見つめ合う。緊張が漂う中、先に動いたのはチビだった。
「キュ」
短く鳴きながら一歩前へ出る。ダンジョンウルフも鼻を鳴らし、ゆっくりと頭を下げた。やがて二匹の鼻先が軽く触れ合う。それだけだった。だが、それは十分な挨拶だった。レインはその光景を見つめながら思う。三階層へ来た目的は探索だったはずだ。それなのに気付けば、とんでもない成果を手にしている。チビに続く二体目の仲間。そして巨大蜘蛛の素材。まだ何が起きるかは分からない。だが確かなことが一つだけある。冒険者としても、テイマーとしても。レインはまた一歩、大きく前へ進んでいた。




