10 巨大蜘蛛 VS ダンジョンウルフ
資料室での調査を終えた二人は、翌日から再び三階層の探索を続けていた。
残っていた西側の通路を中心に進みながら、地図へ新しい情報を書き加え、魔物の出現場所や危険な場所も一つずつ確認していく。
これまで避けていた区域にも少しずつ足を踏み入れ、二人は慎重に周囲を警戒しながら奥へと進んでいった。
何度か魔物との戦闘を繰り返したものの、大きな問題に遭遇することはなく、探索は順調に進んでいた。
しかし、しばらく進んだところで、前方からこれまでとは違う気配が漂ってきた。レインは足を止め、隣を歩くリリアへ静かに視線を向ける。
「リリアさん、少し先の様子を確認してみましょう」
「はい、何かいるようですね」
二人は警戒しながら通路を進み、やがてその先にあった空間へと近づいていった。やがて視界が開け、少し広めの空間へ辿り着いた。そこで目にした光景に、レインたちは思わず足を止める。灰色の毛並みを持つ若いダンジョンウルフが、一匹で戦っていた。しかし状況は明らかに異常だった。
体のあちこちには深い裂傷が刻まれ、肩で荒く息をしている。それでも金色の瞳から闘志は失われておらず、牙を剥きながら周囲の敵を睨みつけていた。そして、そのダンジョンウルフを取り囲んでいたのは無数の蜘蛛型魔物だった。拳ほどの小型の個体もいれば、大型犬ほどの大きさを持つ個体もいる。周囲には粘つく糸が幾重にも張り巡らされ、獲物の逃げ道を塞ぐように配置されていた。だが、レインの視線を最も引いたのは別のものだった。広間のあちこちに、大きさの異なる魔石が転がっている。その数は一つや二つではない。
リリアが息を呑んだ。レインも無言で頷く。魔石の大きさは、ゴブリンや巨大ネズミのものではない。むしろ、今目の前で戦っているダンジョンウルフと同じくらいの魔力を感じさせるものだった。よく見ると、魔石の周囲には灰色の毛が散っている。乾ききっていない血痕も残っていた。
「仲間、だったのか……」
レインは小さく呟いた。蜘蛛の群れに襲われたのは、このダンジョンウルフだけではなかったのだ。群れごと追い詰められ、仲間たちは次々と倒れていった。そしてダンジョンの魔物である以上、死骸は残らない。残されたのは、仲間だったことを示す魔石だけだった。それでも狼は立っている。たった一匹になってなお、諦めることなく牙を剥いていた。
「このままだと……」
リリアが眉を寄せる。レインも無言で頷いた。普通なら、ここで関わらずに立ち去るという選択もある。だが、ダンジョンウルフはまだ戦っていた。傷だらけになりながらも立ち上がり、生きることを諦めていない。仲間を失ってなお、一匹で抗い続けている。
短く息を吐きながら気持ちを落ち着かせると、覚悟を決めて前方を見据える。巨大蜘蛛の鋭い脚が振り下ろされる。そのたびに灰色のダンジョンウルフは傷付きながらも必死に立ち上がっていた。逃げれば助かるかもしれない。それなのに逃げない。何度倒されても牙を剥き、再び立ち向かっていく。その姿を見た瞬間、レインの胸の奥が妙にざわついた。なぜだろう。ただの魔物のはずだった。見捨てても誰も責めない。むしろ危険を考えれば関わらない方が正しい。頭ではそう理解している。だが視線だけは狼から離れなかった。血に濡れた毛並み。震える足。それでも諦めない瞳。その姿が、なぜか昔の自分と重なって見えた。冒険者になったばかりの頃。何度も失敗した。強い相手に怯えた。才能のなさに落ち込んだこともある。それでも前へ進もうとしていた。倒れても立ち上がるしかなかった。誰にも期待されていなくても。誰にも見られていなくても。ただ必死だった。今、目の前にいる狼も同じだった。勝てない相手だと分かっているはずなのに戦っている。逃げ出したくなるほど恐ろしいはずなのに立ち向かっている。その姿を見てしまった。だから見捨てることができなかった。もしここで背を向ければ。きっと後で後悔する。そんな確信にも近い感情が胸の中にあった。レインは短剣の柄を強く握る。危険なのは分かっている。無茶だということも理解している。それでも。目の前で必死に生きようとしている存在を放ってはおけなかった。小さく息を吐く。そして決意を固める。
「 「助けましょう!」 」
二人は目を合わせ力強く頷いた。レインは地面を蹴って駆け出した。広間の中央では、ダンジョンウルフが巨大蜘蛛と激しい戦いを繰り広げていた。灰色の毛並みは土埃と血で汚れており、呼吸も荒くなっている。それでも決して背を向けることなく、必死に牙を剥いて立ち向かっていた。
「ウォォォォッ!」
怒りにも似た咆哮を上げながら、ダンジョンウルフが巨大蜘蛛へ飛び掛かる。鋭い牙が蜘蛛の脚へ食い込み、硬い外殻へ確かな傷を刻んだ。しかし巨大蜘蛛も決して弱い相手ではなかった。長く鋭い脚を振り回し、ダンジョンウルフを強引に弾き飛ばす。
「ギャンッ!」
ダンジョンウルフの身体が地面を転がり、大きく吹き飛ばされた。それでもなお立ち上がり、再び敵へ向かおうとしている。だが誰の目にも分かるほど追い詰められていた。身体のあちこちには傷があり、足取りにも疲労が見えている。このまま戦い続ければ、いずれ力尽きるのは明らかだった。
数匹の小型蜘蛛が狙いを変え、こちらへ向かってくる。
「こっちに来ます!」
リリアが杖を構えた。
「チビ!」
レインが呼ぶと、黒い影が素早く地面を駆けた。
チビは一匹の蜘蛛へ飛び掛かり、鋭い牙をその脚へ食い込ませる。
「ギッ!」
蜘蛛が身体を振り回す。
チビはすぐに飛び退き、次の瞬間には別の蜘蛛へ回り込んだ。
「そこです!」
リリアが杖を振る。
補助魔法によって自身の強化された身体で踏み込み、杖の先端を蜘蛛へ叩き付ける。
「ギィッ!」
蜘蛛が床へ転がった。
その隙にチビが飛び掛かり、動きを止める。
「こっちは私たちに任せて!!」
リリアが叫ぶ。
「はい!行きます!」
レインは短剣を抜き放ちながら前方へ飛び出した。巨大蜘蛛は新たな侵入者に気付き、不気味な複眼をレインへ向ける。
「ギギィィッ!」
不快な鳴き声を上げると同時に、蜘蛛の口から大量の糸が吐き出された。白い糸の塊は一直線に飛来し、レインを捕らえようと迫ってくる。レインは咄嗟に身体を捻りながら横へ飛び退いた。糸は背後の壁へ張り付き、強烈な粘着力を見せつける。まともに捕まれば身動きが取れなくなることは間違いなかった。
「厄介な相手ですね!」
リリアが緊張した声で叫ぶ。
「近付かないと倒せません!」
レインはそう返しながら、蜘蛛の動きを睨み続けた。その直後、リリアの補助魔法が発動する。淡い光がレインの身体を包み込み、筋力と反応速度が引き上げられる。身体が軽くなった感覚を確かめると、レインは一気に距離を詰めた。巨大蜘蛛の脚が槍のような勢いで振り下ろされる。まともに受ければ骨ごと砕かれる威力だった。レインは紙一重で回避しながら蜘蛛の懐へ潜り込む。そして脚の関節部分を狙って短剣を振るった。
「はぁっ!」
硬い手応えが腕へ伝わる。それでも刃は確かに外殻の隙間へ食い込み、一筋の傷を刻んだ。
「ギィィッ!」
巨大蜘蛛が怒りの悲鳴を上げる。その瞬間だった。
「ウォォン!」
ダンジョンウルフが再び飛び出した。傷だらけの身体にもかかわらず、その動きにはまだ力強さが残っている。鋭い牙が蜘蛛の後脚へ食い込み、無理やり注意を引き付けた。巨大蜘蛛の意識が二方向へ分散する。
「今です!」
リリアの声が広間へ響いた。レインは迷わず踏み込む。短剣を逆手に握り直し、複眼を狙って跳躍した。しかしその瞬間だった。蜘蛛の腹部が不気味に膨らむ。
「まずい!」
レインは咄嗟に危険を察知した。次の瞬間、大量の蜘蛛糸が至近距離から放たれる。回避は間に合わない。そう思った時だった。灰色の影が勢いよく飛び込んでくる。ダンジョンウルフだった。
「ウォォォッ!」
巨大な身体がレインへ体当たりする。レインは弾き飛ばされるように後方へ転がった。直後、大量の蜘蛛糸がダンジョンウルフへ直撃する。
「なっ!」
前脚と胴体が糸によって拘束され、その場へ縫い付けられてしまう。巨大蜘蛛は勝利を確信したように牙を鳴らしながら近付いていく。このままでは確実に食い殺される。レインは歯を食いしばった。
「させるか!」
全力で地面を蹴り、一気に距離を詰める。巨大蜘蛛が牙を振り下ろそうとした瞬間だった。レインの短剣が複眼へ深々と突き刺さる。
「ギィィィィィッ!!」
耳を塞ぎたくなるような絶叫が広間へ響き渡った。巨大蜘蛛は激しく暴れながら身体をのけ反らせる。レインはその隙を逃さない。複眼へ、首元へ、関節へ。急所を狙って何度も刃を振るった。巨大蜘蛛の動きが徐々に鈍くなっていく。その時だった、拘束されていたダンジョンウルフが最後の力を振り絞る。
「ウォォォォォン!!」
蜘蛛糸を強引に引き千切りながら飛び出した。そして全身の力を込めた一撃を放つ。鋭い牙が巨大蜘蛛の喉元へ深く食い込んだ。巨体が大きく揺れる。数歩よろめく。そして――轟音と共に巨大蜘蛛の身体が地面へ崩れ落ちた。広間に静寂が戻る。




