05 チビの活躍
3階層へ足を踏み入れてからしばらく経っていたが、2階層までとは明らかに空気が違っており、レインたちは自然と会話を減らしながら慎重に通路を進んでいた。壁際には薄緑色の苔が張り付き、湿った石の匂いが鼻をつくたびに、ここが初心者向けの階層ではないことを改めて実感させられる。
「静かですね」
周囲を見回しながらリリアが小声で呟き、レインも同じことを考えていたため無言で頷いた。魔物の数は少ないが、その分だけ一体ごとの危険度が高く、気配がない時間ほど緊張感が増していく。その時だった。肩の上でくつろいでいたチビの耳がぴくりと動き、赤い瞳が真っ直ぐ通路の奥を見据える。
「キュ」
短く鳴いた声に反応してレインも足を止めると、数秒後には物陰から魔物が姿を現した。
人間の胸ほどの高さを持つ二足歩行の蜥蜴だった。
全身を覆う鱗はくすんだ灰緑色をしているものの、場所によって濃淡が大きく異なり、ところどころには泥のような黒い汚れがこびりついている。
腹部だけは鱗が細かく柔らかそうな皮膚に近い質感になっており、呼吸するたびに薄い皮膚が大きく上下していた。太い腕の先には人間の指によく似た五本の指が並び、その先端には黄ばんだ鉤爪が伸びている。
右手には骨で作られたような武器が握られていた。
口元には鋭く不揃いな歯が何本も並び、半開きになった顎の隙間から生臭い息が漏れていた。
縦に細く裂けた瞳孔を持つ黄色い目が、獲物を値踏みするようにこちらをゆっくりと見回している。
長い舌が一度だけ口元から伸び、空気を舐めるように動いた。
その仕草を見た瞬間、レインの背筋を嫌な感覚が走った。
「レッサーリザードだ」
資料室で名前だけ見たことがあったが、実際に見るのは初めてだった。
ゴブリンより力が強く、油断した新人冒険者を何人も負傷させている魔物だと教えられている。
実際に目の前にすると、その言葉の意味が嫌でも理解できた。
レッサーリザードの身体からは獣と腐った肉を混ぜたような臭いが漂い、口元には黒ずんだ唾液が糸を引いている。
それが石床へ落ちるたび、粘ついた音が小さく響いた。
レッサーリザードは低く喉を鳴らしながら骨の武器を握り直した。
削り出した骨の表面には無数の傷が刻まれており、握り込まれた部分には古い血が黒く染み込んでいる。
次の瞬間、レッサーリザードが地面を蹴った。
「来ます!」
リリアの声と同時に、レインも短剣を構えて前へ出る。
レッサーリザードは見た目から想像するよりもはるかに速く、身体を低く沈めながら一気に距離を詰めてきた。
振り下ろされた骨の武器をレインが横へ避けると、刃先が石床へ叩き付けられ、乾いた音とともに細かな石片が飛び散った。
「くっ!」
レインはすぐに距離を詰めようとした。
しかし、レッサーリザードは武器を引く動作からほとんど間を置かず、今度は横薙ぎに振り抜いてくる。
レインは短剣で受け流したものの、腕へ伝わった衝撃は予想以上に重かった。
「重い……!」
そのまま押し込まれ、レインの靴底が石床の上を僅かに滑る。
レッサーリザードはそこへ追撃を叩き込もうと、口を大きく開いた。
「ギャアアッ!」
耳障りな咆哮とともに、鋭い歯が並んだ口が迫ってくる。
レインは咄嗟に身体を捻り、その顎を紙一重で避けた。
目の前を通り過ぎた口から、生臭い息が直接顔へ吹き付ける。
「近くで見ると、気持ち悪いな……!」
レインは悪態を吐きながら距離を取った。その直後、レッサーリザードの足元へ黒い影が滑り込む。
「チビ!」
チビは床を這うような低い姿勢で駆け抜けレッサーリザードが武器を振り上げるより早く、その足元へ噛み付いた。
「ギャッ!?」
鋭い牙が鱗の隙間へ食い込み、レッサーリザードが苦鳴を上げる。
しかし、レッサーリザードは倒れなかった。
噛み付いたチビへ向けて足を振り上げ、強引に振り払おうとするがチビは素早く牙を離して飛び退いた。
「さすがに倒れないか……!」
レインはごちりながらも、その隙を逃さず踏み込んだ。
短剣を握り直し、レッサーリザードの側面へ回り込む。
しかし、レッサーリザードもすぐにこちらへ身体を向けた。
黄色い瞳がレインを捉え、口の端から再び唾液が垂れる。
「来い……!」
レインが構えた瞬間、レッサーリザードが再び突っ込んできた。
骨の武器が振り下ろされ、レインは身体を横へ投げ出すように避ける。
直後、背後の壁へ骨が叩き付けられ、鈍い音が響いた。
「これを何度も受けたら、腕が持たない……!」
レインは息を整えながら、レッサーリザードとの距離を測る。
その間にもリリアは後方から二人の動きを確認し、いつでも回復できるように魔力を集中させていた。
「レイン君、怪我はありませんか?」
「まだ大丈夫です、ですが長引かせるのは危険です!」
「分かりました、危なくなったらすぐに言ってください!」
リリアがそう叫んだ直後、レッサーリザードが再び踏み込んだ。
レインは攻撃を避けながら反撃の隙を探す。
だが、レッサーリザードは予想以上にしぶとかった。
肩を狙った短剣を腕で防ぎ、鱗の表面から血が滲んでも怯む様子を見せない。
「硬い……!」
レインが短剣を引いた瞬間、レッサーリザードの爪が迫った。
「っ!」
レインは腕を引いて避けたものの、爪先が袖を裂き、布地の下に浅い傷が走る。
「レイン君!」
「大丈夫です!」
レインは痛みを無視して踏み込み、今度はレッサーリザードの懐へ潜り込んだ。そこへチビが再び走り込む。レッサーリザードがチビへ意識を向けた一瞬を狙い、レインは首元へ短剣を突き込んだ。
「これで……!」
刃が鱗の隙間へ入り込み、赤黒い血が噴き出しレッサーリザードが身体を大きく震わせる。
それでも倒れず、最後の力を振り絞るように骨の武器を振り上げた。
レインはその腕を避けながら、もう一度短剣を深く突き込む。ようやくレッサーリザードの身体から力が抜け、巨体が石床へ崩れ落ちた。しばらくして、石床へ落ちた血の臭いだけが残った。
「……倒れましたね」
レインは荒くなった息を整えながら、倒れたレッサーリザードを見下ろした。
「はい……」
リリアの返事は小さかった。レインが振り返ると、リリアは自分の手をじっと見つめている。
「どうかしましたか?」
「……私、もっと強くならないといけないと思います」
「急にどうしたんですか?」
「今回、私は回復することしかできませんでした」
リリアはそう言って、倒れたレッサーリザードへ視線を向けた。
「レイン君が何度も攻撃を避けて、チビちゃんが隙を作って、その間に私は後ろから見ているだけでした」
「そんなことはありません」
レインはすぐに否定した。
「リリアさんがいてくれたから、僕も無理をして戦えました」
「でも、私は自分から戦うことができません」
リリアは悔しそうに拳を握った。
「魔法を使えるようになっても、守られているだけでは駄目だと思うんです」
「リリアさんは神官なんですから、前に出て戦う必要はありません」
「分かっています」
リリアは小さく頷いた。
「でも、今よりもっと上手く支えられるようになりたいです」
その言葉には、先ほどまでの落ち込みとは違う決意が込められていた。
「レイン君が危ない時に、すぐ回復できるようになって、もっと早く判断できるようになりたいです」
レインはしばらくリリアを見つめ、それから静かに頷いた。
「それなら、少しずつ強くなっていきましょう」
「はい」
リリアは小さく笑った。
その横では、チビが何事もなかったように毛づくろいをしている。
「お前は相変わらず余裕そうですね」
「キュッ」
チビは短く鳴くと、何事もなかったように先へ進み始めた。
レインとリリアは顔を見合わせ、苦笑しながらその後を追った。
リリアが感心したように言うと、レインも深く頷いた。
「助かったな」
そう言いながら視線を向けると、チビは倒れたレッサーリザードの周囲を堂々と歩き回っており、どう見ても自分の功績を主張しているようにしか見えなかった。
「キュッ」
誇らしげに胸を張る姿が妙に可笑しく、レインは思わず笑いながら頭を撫でる。
「偉い偉い」
褒められたチビは満足そうに目を細め、そのまま当然の権利のように再び肩へよじ登ってきた。探索を続けるうちに、チビの存在感はますます大きくなっていった。索敵能力は以前より明らかに向上しており、魔物の接近を誰より早く察知するだけでなく、小柄な体を活かして敵の死角へ潜り込み、戦況そのものを有利に変えてしまう場面が何度もあった。相手を混乱させ、隙を作り、仲間が動きやすい状況を整える能力は、もはや単なるネズミの域を超えていた。戦闘の合間にその姿を見ながら、レインは複雑な気持ちを抱いていた。自分自身もレベル6になり、以前よりは確実に強くなっている。それでも最近のチビを見ていると、自分以上の速度で成長しているような気がしてならなかった。動きは速くなった。判断も賢くなった。敵の隙を突く技術まで身に付け始めている。以前なら危険な魔物を見ただけで逃げ回っていた相棒が、今では自ら戦況を作り出しているのだから驚くしかなかった。夕方が近付く頃には、革袋の重さも朝とは比べものにならなくなっていた。3階層産の魔石に加え、レッサーリザードの牙や革素材、壁際から採取した鉱石の欠片まで集まっており、今日だけでも十分な稼ぎになりそうだった。帰還用の馬車を待ちながら荷物を整理していると、リリアが嬉しそうな表情で革袋を見つめる。
「結構稼げそうですね」
「そうですね。これなら次の装備代も少しずつ貯められそうです」
そう答えながらレインは自然とチビへ視線を向けた。当の本人は荷物の上で丸くなって眠っており、先ほどまで大活躍していたことなど忘れたかのように静かな寝息を立てている。その小さな背中を見つめながら、レインはふと思う。本当に強くなっているのは自分なのか、それともチビなのか。もちろん相棒が成長することは嬉しい。だが同時に、このままでは置いていかれるかもしれないという焦りが胸の奥をかすかに掠めていた。もっと強くならなければならない。もっと知識を身につけなければならない。チビに頼るだけではなく、自分自身が導ける主人でなければならない。夕暮れ色の光が迷宮の出口から差し込む中、レインは眠る相棒を見つめながら、そんな決意を静かに胸の内へ刻んでいた。




