04 三階層
数日後の早朝、レインは街門近くの広場で停車している乗合馬車を眺めていた。森や迷宮方面へ向かう者たちが次々と荷台へ乗り込んでいく。薬草採取を生業にしている者、荷物を抱えた行商人、依頼へ向かう冒険者。いつもなら歩いて通り過ぎるだけだったその光景を、今日は立ち止まって見つめていた。
「本当に乗るんですか?」
隣に立つリリアが、どこか半信半疑といった様子で尋ねる。レインは馬車へ視線を向けたまま頷いた。
「一度試してみたいんです。馬車代を払ってでも探索時間を増やせるなら、その価値があるかもしれませんから」
以前から気になっていたことだった。街から迷宮までの往復には、想像以上に時間と体力を消耗する。
実際に昨日の探索でも疲労が重なり歩みが遅くなり帰り時間もおそくなった。
両親には残業だったとなんとかごまかしたばかりだ。
移動の負担を減らせれば、移動時間も短縮されより深い階層へ挑戦する余裕も生まれるかもしれない。もちろん、馬車代の分だけ利益が減る可能性もある。だからこそ、実際に試して確かめる必要があった。
料金を支払い、二人は荷台へ乗り込む。チビも当然のようにレインの肩へ飛び乗り、落ち着いた様子で周囲を見回していた。やがて御者の掛け声とともに馬車が動き出す。
車輪が石畳を軋ませながら進むたび、荷台には大きな揺れが伝わってきた。決して快適とは言えない乗り心地だったが、それでも歩くよりは遥かに楽だった。何より、体力を消耗しない。森へ続く街道の景色が流れていくのを眺めながら、レインは改めてその利点を実感していた。普段ならまだ街道を歩いているはずの時間帯に、馬車は迷宮の入口付近へ到着した。
「思ったより早いですね」
荷台から降りたリリアが驚いたように呟く。レインも同じ気持ちだった。
「これなら探索時間をかなり増やせそうです」
いつもなら移動だけで消えていた時間が、今日はまだ十分に残っている。その事実に小さな期待を抱きながら、二人は迷宮へ足を踏み入れた。一階層は慣れたものだった。巨大ネズミやゴブリンと遭遇しても、以前のように焦ることはない。連携を崩さず確実に対処しながら進んでいく。二階層へ降りても、その余裕は失われなかった。レベルを上げ、装備を整え、何度も実戦を経験してきた成果が、少しずつ形になって現れている。以前なら苦戦していた相手を冷静に対処できるようになったことが、その何よりの証拠だった。そしてついに、三階層へ続く階段の前へ辿り着く。前回は様子を見るだけで引き返した場所だった。レインは腰の短剣へ手を添えながら、小さく息を吐いた。
「行きましょう」
リリアも緊張した面持ちで頷く。三階層へ足を踏み入れると、空気の重さが一段階増したように感じられた。静寂に満ちた空間は、上層とはどこか異なる雰囲気を漂わせている。それでも今回は、前回ほどの恐怖はなかった。慎重に周囲を警戒しながら進んでいると、不意に視界の先で何かが動いた。大型犬ほどの体格を持つ灰色の獣だった。狼にも似ているが、その瞳は血のように赤く、口元から覗く牙は異様なほど長い。
「見たことのない魔物ですね」
リリアが声を潜める。レインも小さく頷いた。その時だった。肩の上にいたチビが、ぴたりと動きを止める。黒い瞳は灰色の獣へ向けられたまま微動だにせず、全身から警戒の気配を漂わせていた。普段とは違う反応だった。違和感を覚えたものの、考える余裕はない。灰色の獣はこちらへ気付いていた。低く唸りながら距離を詰め、今にも飛び掛かろうとしている。レインは重心を落とし、短剣を握り直した。以前の自分なら、三階層の未知の魔物を前にして足が竦んでいたかもしれない。だが今は違う。フォレストディアとの戦いを乗り越えた経験は、確かな自信として残っていた。灰色の獣が地面を蹴った瞬間、レインもまた前へ踏み出す。三階層での初めての戦いが始まった。
灰色の獣が地面を蹴った瞬間、レインもまた短剣を構えたまま前へ踏み出した。一直線に迫ってくる巨体を見据えながら、レインは焦らずに相手の動きを待つ。
獣の前脚が振り下ろされた瞬間、レインは身体を横へ滑らせ、鋭い爪を紙一重でかわした。そのまま懐へ潜り込み、すれ違いざまに短剣を脇腹へ突き込む。
「硬い……!」
確かな手応えはあったものの、刃は深く入り込まず、灰色の獣は着地すると同時に身体を反転させた。赤い瞳がレインを捉え、低い唸り声とともに再び地面を蹴る。
今度は正面からではなく、横へ回り込むようにして距離を詰めてくる。レインは短剣を握り直し、足元を確認しながら相手の軌道を見極めようとした。
「レインさん!右です!」
リリアの声が響いた直後、灰色の獣が視界の端から飛び込んできた。レインは咄嗟に身体を捻り、振り下ろされた爪を革鎧で受け流す。
衝撃が身体へ伝わったものの、以前のように大きく体勢を崩すことはなかった。補強された革鎧が衝撃を受け止め、レインはそのまま足を踏み止める。
「助かりました!」
礼を言いながら距離を取ると、リリアが杖を構えたまま魔法を放った。淡い光が獣の足元へ絡みつき、その動きが僅かに鈍る。
「今なら!」
レインは迷わず地面を蹴り、動きの止まった獣との距離を一気に詰めた。短剣を握る手に力を込め、正面から迫る牙を身体を傾けてかわす。
そのまま獣の懐へ入り込み、下から短剣を突き上げるようにして胸元へ深く刃を通した。灰色の獣が大きく身体を震わせ、苦しげな咆哮を上げる。
それでも倒れず、最後の力を振り絞るように前脚を振り回してくる。レインは後ろへ跳んで攻撃をかわし、短剣を構え直しながら相手の動きを警戒した。
「まだ動けるのか……!」
その瞬間、肩に乗っていたチビが地面へ飛び降り、灰色の獣の足元を素早く駆け抜けた。獣がチビを追って身体を向けたことで、一瞬だけレインへの意識が逸れる。
その隙を見逃さず、レインは一気に踏み込んだ。
「これで終わりだ!」
短剣が閃き、首元へ深く刃が食い込む。灰色の獣は身体を大きく揺らしながら数歩後退した後、力を失ったように石床へ倒れ込んだ。
しばらくの間、三階層には獣の荒い呼吸だけが響いていた。
やがてそれも消えると、レインは短剣を下ろし、大きく息を吐き出した。想像していた以上に激しい戦いだったが、無傷で切り抜けることができた。
戦闘を終えた後、レインは回収した魔石を手に取った際いつもより重いことに気づいた。
「これは……」
思わず声が漏れる。二階層で手に入る魔石よりも一回り大きく、色合いも濃い。リリアも覗き込みながら頷いた。
「価値はかなり高そうですね」
三階層は危険だ。だが、その危険に見合うだけの報酬がある。手の中の魔石は、それを何より雄弁に物語っていた。その後も慎重に探索を続けた結果、昼過ぎまでの収穫だけで、二階層を一日かけて探索した時に近い成果を得ることができた。帰りの馬車を待ちながら、レインは革袋の重みを確かめる。馬車代は決して安くない。それでも、三階層を探索するのであれば十分に回収できる。むしろ、これまで以上の利益が見込めるかもしれない。
「試してみて正解でしたね」
リリアの言葉に、レインは小さく笑った。
「そうですね。少なくとも、三階層へ行くなら悪くなさそうです」
革袋の中で魔石が小さく音を立てる。少しずつ。本当に少しずつではあるが、自分たちは確実に前へ進んでいる。以前は手の届かなかった場所へ足を踏み入れ、以前なら倒せなかった相手と戦い、以前なら考えもしなかった選択肢を検討できるようになった。その変化を実感しながら、レインは夕暮れの街へ戻る馬車へ乗り込んだ。まだ道の途中だ。それでも、進んでいるという確かな手応えだけは、今の彼の胸の中にはっきりと残っていた。




