02 未踏への一歩
ダンジョンへ到着した頃には、朝の冷え込みも少しずつ和らぎ始めていた。森の奥に佇む石造りの遺跡は、以前と変わらず静かな威圧感を放っている。街道の先に低い丘の裂け目のようなものが見えてきた。そこには建物はない。ただ大地にぽっかりと空いた黒い穴と、その周囲に設けられた簡素な柵と受付小屋だけがあるその光景を見上げながら、レインは軽く肩を回す。
フォレストディアとの戦いで負った傷は、もう完全に治っていた。あの時は腹を深く裂かれ、しばらくは無理もできなかったが、リリアの回復魔法と数日間の静養のおかげで後遺症も残っていない。
身体を動かしてみても違和感はなく、むしろ以前より調子が良いくらいだった。修理された革鎧も身体によく馴染んでいる。補強された腹部を軽く叩きながら、レインは小さく息を吐いた。
「ようやく戻ってきましたね」
隣に立つリリアが、どこか懐かしそうに遺跡を見上げる。レインも同じ気持ちだった。
初めてこの場所へ来た時は、不安と緊張で周囲を見る余裕などなかった。ゴブリン一匹にすら神経を張り詰めていた頃である。今では多少なりとも経験を積み、自分たちの実力も理解できるようになっていた。もちろん慢心するつもりはない。それでも以前の自分たちとは違う。そう思える程度には成長していた。
「調子はどうですか?」
リリアの問いに、レインは腕を伸ばしながら答える。
「問題ありません。傷も気になりませんし、身体も軽いです」
レベルが上がった影響もあるのだろう。以前より疲れにくくなり、動きにも余裕が生まれている。戦闘経験を積んだことで無駄な力みも減った。そうした変化を自分自身でも感じていた。肩の上ではチビが待ちきれない様子で尻尾を揺らしている。赤い瞳はすでにダンジョンの入口へ向いていた。
「キュッ!」
早く行こうと言わんばかりの鳴き声だった。レインは思わず苦笑する。
「分かったから落ち着け」
頭を軽く撫でると、チビは満足そうに鳴いた。それを見ていたリリアも小さく笑う。緊張感のない様子だが、チビの索敵能力は今や大きな戦力だった。実際、これまで何度も危険を察知して助けられている。レインたちは装備を確認し合うと、そのままダンジョンの入口へ向かった。
石造りの階段を降りると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。外とは別世界のような静けさだった。湿った石の匂いが鼻をつき、遠くから水滴の落ちる音が微かに聞こえてくる。何度訪れても慣れない独特の空気だった。しかし以前のような恐怖はない。未知への警戒はあっても、足がすくむことはなかった。1階層の通路を進みながら、レインは周囲へ視線を巡らせる。崩れた石壁。苔の生えた床。ところどころに残る古い遺跡の名残。以前探索した場所だけに見覚えも多かった。
「あそこ、覚えていますか?」
リリアが壁際を指差す。そこには崩れた石材が積み重なっていた。レインはすぐに思い出す。
「ああ、スキルオーブを見つけた場所ですね」
あの時は本当に驚いた。ミノタウルスが破壊した壁の奥から貴重なスキルオーブが出てきたのだ。今思い返しても幸運だった。もっとも、その事実を知る者はレインとリリア以外に存在しない。二人だけの秘密だった。
ふと、レインの脳裏に探索で遭遇したミノタウルスの姿が浮かんだ。
あの時も、なぜ1階層にあんな魔物がいたのかは分からなかった。
ギルドには報告してあるが、返ってきたのは「調査する」という言葉だけだった。
結局、それから何か分かったという話は聞いていない。
「……まあ、考えても仕方ないか」
レインは小さく呟き、再び前を向いた。
その後も探索は順調に進んだ。
レインは新しい短剣を握り直した。以前のものより重さはあるが、重心が安定している。そのおかげで突きの軌道がぶれず、狙った場所へ刃を通しやすい。
巨大ネズミが飛びかかってきても、以前のように大きく避ける必要はなかった。腕を上げ、小手で爪を受け流す。甲虫系モンスターの殻を加工した小手は、見た目以上に頼もしい。続けて踏み込み、短剣を突き込む。
「キュ!」 チビの声が響く。
別のゴブリンが横から迫ってくる。レインが振り返るより早く、リリアの補助魔法が身体を支えた。新しくしたローブのおかげか、魔力の流れも以前より安定している。
レインはそのまま踏み込み、ゴブリンの攻撃をかわす。刃が深く入り、魔物が崩れ落ちた。
以前なら、攻撃を避けることだけで精一杯だった。傷を負えば動きが鈍り、リリアに回復を頼る場面も多かった。
だが、今は違う。
補強された革鎧と小手が守りを支え、新しい短剣が攻撃を助ける。リリアの援護も安定し、チビの察知能力を合わせれば、目の前の魔物に余裕を持って対処できる。
三人の連携そのものが、一段上がっていた。
「……装備を変えただけで、ここまで違うのか」
レインが呟く。
もちろん、それだけではない。これまで積み重ねてきた経験もある。
それでも、先日の買い替えが無駄ではなかったことは、今の戦いを見ればはっきり分かった。
階段を降りて2階層へ到達した後も、探索は続いた。階段を降りて2階層へ到達した後も、探索は続いた。
魔石や素材を回収しながら慎重に通路を進む。次第に周囲の人の気配は少なくなっていった。
床に残る足跡も古く、最近通った者は少ないらしい。壁際に転がる松明の燃えかすも、長い時間放置されているようだった。新人冒険者たちが活動する区域は、すでに通り過ぎている。レインたちは着実に奥へ向かっていた。やがて見覚えのある場所へ辿り着く。前回探索した際、撤退を決めた地点だった。ここまでは知っている。
問題はその先だった。リリアも足を止める。
「ここから先ですね」
その声は自然と小さくなっていた。レインは静かに頷く。前回は時間も体力も足りなかった。無理をせず引き返したのは正しい判断だったと思う。
だが、その先に何があるのかだけは分からないままだった。だからこそ今日ここへ来た。自分たちの限界を知るためではない。さらに先へ進むためだった。
レインは腰の短剣へ手を添える。新しく購入した武器の感触が掌に伝わった。チビも肩の上で耳を立てている。リリアも杖を握り直していた。誰も言葉にはしなかったが、三人とも同じことを考えている。
ここから先は未知の領域だ。何が現れるか分からない。だからこそ慎重に進まなければならない。レインは小さく息を吐くと、暗い通路の奥へ視線を向けた。そして仲間たちと共に、まだ誰も知らない先へ向かってゆっくりと歩き出した。




