15 家族への言い訳
ギルドを出た頃には、空はすっかり夕暮れ色へ染まっていた。西へ傾いた陽は石畳を赤く照らし、行き交う人々の影を長く引き伸ばしている。依頼帰りの冒険者たちが酒場へ流れ込む時間帯らしく、周囲には賑やかな笑い声が響いていた。
レインは受け取った報酬袋を軽く握り直し、小さく息を吐く。銀貨を受け取り、素材の売却も無事に終わったことで、本来ならそのまま帰宅してもよかった。だが、今の自分の格好を思い出すたびに、その選択肢は現実的ではないと理解できる。フォレストディアの返り血に、自分自身の血痕。解体作業で付着した泥や脂の汚れまで加わり、服は見るも無惨な状態になっていた。このまま家へ帰れば、母親から根掘り葉掘り問い詰められる未来しか想像できない。
「先に古着屋ですね」
隣を歩くリリアも、同じ結論へ至ったらしい。レインは苦笑しながら頷き、揃って市場近くの古着屋へ足を向けた。
安価なシャツとズボンを購入した後、二人は外郭区にあるいつもの隠し場所へ向かう。革鎧を脱ぎ、丁寧に汚れを拭いながら片付けていくと、腹部の裂け目が嫌でも目に入った。安物の装備ではあったが、あの一撃を受け止めてくれたからこそ、今こうして生きているのだと思う。修理できるなら修理したい――そんな気持ちを抱きながら革鎧を置き終えると、レインは新しい服へ着替えた。血の臭いもかなり薄れ、人前を歩いても怪しまれない程度には見られる姿へ戻っている。
「それじゃあ、また明日」
「はい、お疲れさまでした」
短い挨拶を交わしてリリアと別れると、レインは一人で家路についた。
家の扉を開けると、ちょうど夕食の支度をしていた母親が振り返った。漂ってくる香ばしい匂いに空腹を刺激されながら、レインも普段通りの声で返事をする。
「ただいま」
「あら、お帰り」
何事もなかったように通り過ぎようとしたものの、母親の視線がふと止まった。新しく買った服を見比べるような目付きに、レインの背中へ嫌な汗が流れる。
「レイン、その服どうしたんだい?」
「えっと……安かったから買ったんだ」
できるだけ自然を装って答えたが、母親は少しだけ首を傾げていた。完全に納得した様子ではないものの、それ以上深く追及されることはない。
「ふーん、そうかい」
短い返事に胸を撫で下ろしながら、レインは荷袋の中へ手を伸ばした。取り出したのは、売却せずに持ち帰ったフォレストディアの肉だった。夕食用に少しだけ残しておいたものであり、今日の成果の一部でもある。
「それは?」
「職場でもらったんだ」
反射的に出た言葉に、レイン自身が少しだけ罪悪感を覚えた。冒険者をしていることは、まだ両親へ打ち明けていない。だからこそ、こうして誤魔化すしかないのだ。
「へぇ、ずいぶん立派な肉じゃないか」
母親は感心したように肉を眺め、そのまま夕食の材料として台所へ運んでいった。どうやら不自然には思われなかったらしい。
しばらくして父親も帰宅し、家族揃っての夕食が始まる。食卓へ並んだ肉料理を見た父親は、思わず目を丸くしていた。
「今日は豪華だな」
「レインが職場でもらってきたんだよ」
母親の説明に、レインは曖昧な笑みを返す。少しだけ後ろめたさはあったが、焼き上がった肉を口へ運んだ瞬間、その感情はあっさり吹き飛んだ。柔らかな肉質と溢れる肉汁に、思わず目を見開く。うまい。森を歩き回ったことも、血塗れになったことも、慣れない解体作業に悪戦苦闘したことも、枝肉を抱えて帰ってきた疲労も、すべてがこの一口へ繋がっているような気がした。
「どうしたんだい?」
母親に声を掛けられ、レインは小さく笑う。
「いや、美味しいなって思って」
「確かにな」
父親も満足そうに頷き、珍しく食卓の会話は穏やかに続いていった。そんな中、不意に父親の視線がレインの肩へ向く。正確には、その上に乗っているチビへ向けられていた。
「ん?」
チビはいつも通り、食卓の近くで大人しくしている。だが今日は解体作業の影響もあり、毛並みに血や土の汚れがこびり付いていた。それだけではない。進化によって黒く変わった毛色も重なり、以前より明らかに黒ずんで見えている。レインは無意識に視線を逸らした。ただの汚れだ、そう自分へ言い聞かせる。少なくとも、今この場で説明できるような変化ではなかった。
「おいレイン」
「なに?」
「そのネズミ、そろそろ水浴びさせた方がいいんじゃねぇか」
「キュ?」
チビは言葉の意味こそ分からないものの、不穏な気配だけは察したらしい。ぴくりと身体を震わせた後、わずかに身を縮こませる。
「どう見ても汚れてるだろ」
父親の指摘に、母親も覗き込むようにチビを見た。
「あら、本当だねぇ。なんだか前より黒く見えるじゃないか」
その言葉に、レインの心臓が一瞬だけ跳ねる。
「埃と泥が付いてるだけだと思うよ」
努めて平静を装いながら答えると、母親は「そうかい」と曖昧に頷いた。父親の方は納得しきれていない様子だったが、やがて大きく肩を竦める。
「まあいいけどよ。そのままだと臭くなるぞ。明日、川にでも連れていけ」
「キュウ……」
チビは露骨に嫌そうな声を漏らし、さらに身体を小さく丸めた。その分かりやすい反応に、母親が吹き出す。
「本当に嫌なんだねぇ」
「そりゃ嫌だろうな」
父親も呆れたように笑っていた。
「でも明日だ。放っとくわけにもいかねぇだろ」
レインは曖昧に頷きながら、これ以上話題が広がらないことを祈る。チビの正体について、今の段階で両親へ説明するつもりはなかった。
夕食を終えると、レインは自室へ戻った。扉を閉めた瞬間、張り詰めていた気力が一気に抜け落ちる。ベッドへ腰を下ろしただけで、全身の疲労がどっと押し寄せてきた。
「……今日も長かったな」
小さく呟きながら視線を向けると、チビは部屋の隅で丸くなっている。黒い毛並みが影と溶け合い、静かな寝息だけがかすかに聞こえていた。戦闘もあった。解体もあった。査定では落ち込み、講習の成果も実感した。振り返れば、本当にいろいろなことがあった一日だった。だからこそ、今はもう考えなくていい。ひとまず眠って、身体を休める。明日のことは、明日考えればいい。そう結論付けたレインは、ゆっくりと目を閉じた。
その夜、食卓では両親が何気ない雑談を続けていた。
「そういや、あのネズミって長生きだよな」
父親の言葉に、母親も首を傾げる。
「言われてみれば、前からずっといるねぇ」
「普通のネズミって、あんなに生きるもんなのか?」
「どうなんだろうねぇ。魔物なら違ったりするのかね?」
深く疑っているわけではない。ただの世間話の延長だった。けれど、その何気ない会話は、少しずつ変わり始めた日常の一端を静かに示しているようでもあった。




