↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/68

08 ミノタウルス

二人が慎重に通路を進んでいた、その時のことである。前方からではなく後方から慌ただしい足音が響き渡り、静まり返っていた通路の空気が一瞬にして張り詰めたものへと変わった。何事が起きたのかとレインが振り返ると、数人の若い冒険者たちが血相を変えながら全力でこちらへ駆けてくる姿が見える。


「ふざけんなよ! こんな階層にいるなんて聞いてねぇぞ!」


先頭を走る剣士風の青年が半ば悲鳴のような声を上げながら通り過ぎていく。


「お前たちも早く逃げろ! 本当に死ぬぞ!」


別の冒険者もそう叫びながら振り返ることなく走り去り、そのまま入口方面へ消えていった。誰一人として立ち止まる者はおらず、その様子だけでも異常事態であることは十分に伝わってくる。ただ事ではないと理解した瞬間、レインの背筋を冷たいものが駆け抜けた。


その直後だった。


――ズシン。


――ズシン。


まるで巨大な岩塊が歩いているかのような重い振動が足元から伝わり、石床がわずかに揺れ始める。レインは反射的に通路の奥へ視線を向けた。暗闇の向こうから姿を現した巨大な影を見た瞬間、全身の血が凍り付くような感覚に襲われる。頭部には巨大な二本の角が生えていた。黒々とした体毛に覆われた肉体は異様なまでに発達しており、その腕は丸太を何本も束ねたような太さがある。さらに片手には、人間の胴体ほどもある巨大な棍棒が握られていた。ギルドで名前だけ聞いたことがある魔物。それが今まさに目の前へ現れている。


「ミノタウルス……!」


思わず漏れた呟きと共に、レインの喉が緊張で大きく鳴った。


(本物だ……。資料室で何度も読んだ挿絵、討伐報告書に描かれていた巨大な魔物と同じだ。角は想像より太い。棍棒も木じゃない、岩を削って作ったのか? 思った以上に背が高――)


「レイン君!」


リリアの声で我に返る。強いとか弱いとかいう次元ではなく、遭遇した時点で命が危険に晒される存在だと本能が警鐘を鳴らしていた。隣へ視線を向けると、リリアも顔を青くしながら巨大な魔物を見つめている。


「レイン君……」


不安を隠し切れない声が震えながら漏れたが、レインは返事をする余裕もなかった。代わりに周囲へ素早く視線を走らせながら、利用できそうな地形を必死に探し始める。通路の幅や壁との距離、退路の有無を確認したあと、少し先に並ぶ石柱へ視線が止まった。迷宮を支えるための太い石柱が一定間隔で並んでおり、その中には大きな亀裂が走るものも混ざっている。レインは崩れかけた石柱を見つめながら、頭の中で生存のための策を組み立てていった。正面から戦えば勝てず、背を向けて逃げても追い付かれる可能性が高い。ならば周囲の地形を利用してでも時間を稼ぐしかなかった。


「リリアさん」


「は、はい!」


「戦いません。逃げます」


図鑑には『討伐推奨ランク:A級パーティ以上』と書いているのを思い出し、到底勝ち目はないと悟った。リリアは驚いたように目を見開いたが、レインは迷わず続ける。石柱を指差しながら短く説明する。


「あの、特にヒビが大きい支柱を利用して時間を稼ぎます」


(本当にあった……。攻略記録にあった、亀裂の入った支柱だ。危険だから近付くなと書かれていたけど……今は利用するしかない!)


ミノタウルスはゆっくり歩いているように見えるが、その距離は確実に縮まり続けていた。もはや長く考える時間は残されていない。


「僕が先に走りますので、補助魔法の準備をお願いします」


「分かりました!」


二人は同時に駆け出した。それを見たミノタウルスが大きく口を開き、迷宮全体を震わせるような咆哮を放つ。巨大な足が石床を蹴った瞬間、その巨体からは想像もできない速度で突進してきた。


「速いっ……!」


リリアが息を呑む。レインは直線的には逃げず、石柱の外側を回り込むように走った。当然ながらミノタウルスも追ってくる。巨体が石柱の横を通過した瞬間だった。リリアの補助魔法が発動する。身体が一気に軽くなり、レインはさらに加速しながら柱の反対側へ飛び込んだ。ミノタウルスは赤黒い瞳を怒りに震わせ棍棒を振り上げる。棍棒が亀裂の走る石柱へ叩き込まれ、亀裂が一気に広がる。石柱全体が不気味な音を立て始めたが、倒れない。


「やっぱり一回じゃ足りないか……チビ!」


「キュッ!」


チビが柱を駆け登り、わざとミノタウルスを挑発するように鳴く。ミノタウルスの赤黒い瞳がチビを捉え、怒りに任せて棍棒を振り上げた。チビは直前で飛び退く。轟音とともに、振り下ろされた棍棒が亀裂の走る石柱へ直撃した瞬間、嫌な音が通路へ響き渡った。バキリという破壊音と共に亀裂が一気に広がり、ついに石柱が崩れ落ちる。巨大な石塊が轟音を立てながら落下し、大量の瓦礫と土煙が周囲へ広がった。押し潰すほどではないが、進路を塞ぐには十分だった。


レインは荒い呼吸を繰り返しながら叫ぶ。


「今のうちです!」


二人は迷うことなく全力で走り出した。背後から怒りに満ちた咆哮が響く。倒したわけではない。それでも生き延びるための時間だけは稼げた。そう思ったのも束の間だった。土煙の向こうから瓦礫を吹き飛ばす音が響いてくる。


「まだ動けるのか……!」


レインは歯を食いしばりながら走り続けた。肺が焼けるように熱くなり、脚も悲鳴を上げ始めている。それでも足だけは止められない。止まれば死ぬ。その事実だけが頭の中を支配していた。背後から再び重い足音が響く。


――ズシン。


――ズシン。


思った以上に近い。ミノタウルスはすでに瓦礫を突破し、追跡を再開していた。


「速すぎます……!」


リリアの声にも焦りが混じる。補助魔法を受けてなお距離は縮まっていた。前方に曲がり角が見える。レインはそこへ飛び込んだ。しかし次の瞬間、背後から凄まじい轟音が響き渡る。ミノタウルスが棍棒を横薙ぎに振り抜いたのだ。石壁に大きなひびが入り、無数の石片が散弾のように飛来する。レインは咄嗟に身を伏せた。鋭い破片が頭上を掠め、壁へ突き刺さる音が続けざまに響く。冷や汗が背中を流れた。直撃していたら間違いなく命はなかった。


その事実を理解した瞬間、レインの背筋を冷たい汗が流れ落ちていった。心臓は激しく脈打ち続けており、耳の奥では自分の鼓動だけが大きく響いている。これまで何度も危険な戦闘は経験してきたが、ここまで一方的な力の差を感じた相手は初めてだった。ミノタウルスは砕けた石壁の前に立ちながら、再び巨大な棍棒をゆっくりと持ち上げていく。その動作には焦りなど一切なく、まるで獲物を追い詰めることを楽しんでいるかのような余裕すら感じられた。レインは短剣を握り締めながら立ち上がろうとするが、恐怖によって足に力が入らない。逃げなければならないと理解しているのに、身体が思うように動いてくれなかった。


「レイン君!」


リリアが駆け寄ろうとするが、その直後にミノタウルスの赤黒い瞳が彼女へ向けられる。たったそれだけのことで、リリアの身体も強張ってしまった。本能が告げている、あれは絶対に敵にしてはいけない相手だと。ミノタウルスは鼻を鳴らしながら一歩前へ踏み出した。その重い足音だけで通路全体が揺れ動く。巨大な棍棒が再び振り上げられる。今度こそ終わる、レインがそう覚悟した瞬間だった。


「おいおい、下層の魔物がこんな場所まで出張してくるとはな」


聞き覚えのない男の声が通路の奥から響いた。その声は不思議なほど落ち着いており、まるで目の前の状況を深刻だと思っていないように聞こえる。ミノタウルスの動きがぴたりと止まった。レインも思わず声のした方向へ顔を向ける。通路の先には一人の青年が立っていた。年齢は二十代前半ほどに見える。肩まで伸びた黒髪を無造作に揺らしながら、大剣を肩へ担いでこちらを眺めていた。その隣にはローブを纏った女性が静かに立っている。長い銀髪を背中へ流しており、その表情には焦りどころか緊張すら見当たらなかった。二人とも息一つ乱れておらず、まるで散歩の途中で立ち寄っただけのような余裕がある。


ミノタウルスが低く唸り声を上げる。それに対して青年は口元をわずかに吊り上げた。


「悪いが、その辺の新人を潰されると後味が悪いんだよ」


そう言いながら大剣を肩から下ろし、軽く振って感触を確かめる。その何気ない動作だけで空気が変わった。レインにも分かる、この男は強い。今まで見てきた冒険者とは明らかに格が違う。


「エルザ、頼む」


青年が隣の女性へ視線を向ける。


「分かったわ」


エルザと呼ばれた女性は静かに杖を掲げた。その瞬間、周囲の空気が一変する。目には見えないはずなのに、空間そのものが震えたような感覚が全身を駆け抜けた。リリアも目を見開いている。魔法職である彼女だからこそ、その異常さが理解できたのだろう。


「すごい……」


思わず漏れたリリアの呟きに、レインも無言で頷いた。エルザの周囲には淡い光が集まり始めていた。それはレインが今まで見たどの魔法よりも濃密な魔力だった。ミノタウルスも危険を察したのか、大きく咆哮しながら突進を開始する。巨体が床を蹴るたびに石床が揺れ動いた。先ほど自分たちを追い詰めた圧倒的な速度である。だが青年は動かない。逃げる様子も構える様子もなく、その場でミノタウルスを見据えていた。


両者の距離が一気に縮まり、あと数歩で衝突するという瞬間。迷宮の薄暗い空間を切り裂くような銀色の軌跡が走り抜ける。しかし、その一撃の全貌をレインの目は捉えられなかった。目の前に立っていたはずの青年の姿が、一瞬で視界から消え失せたように見えたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。