07 格好の良い勝利を目指して
新人冒険者が迷わないよう、先人たちが残した帰還用の目印であり、これを辿れば入口まで戻れると説明を受けていた。
「迷宮は複雑だから、慣れるまでは脇道に入らない方がいいみたいです」
「帰れなくなったら大変ですもんね」
「だから無理はしない、危なくなったら引き返す、体力は半分残して帰る。薬草屋のおっさんにも何回も言われました」
「魔力も使い切らないようにします。いざという時に回復できなくなったら困りますから」
互いに注意点を確認し合う二人の足元では、チビが落ち着きなく周囲を見回していた。小さな身体ながら赤い瞳は真剣そのものであり、時折鼻を動かしては空気の変化を探っている。
「チビも頼むぞ」
「キュッ」
尻尾をぴんと立てながら返事をする姿に、レインは思わず頬を緩めた。どこまで理解しているのかは分からないが、その存在が心強いことだけは間違いない。今回の役割分担も既に決めてある。レインが前衛として魔物を引き付け、リリアが後方から補助と回復を担当する。そしてチビは、小柄な身体と優れた感覚を活かした索敵役だった。決して完璧な布陣ではなく、経験豊富な冒険者たちと比べれば拙い部分も多い。それでも、それぞれの役割を理解して補い合えることが、二人にとっては大きな支えになっていた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
「キュッ」
三人はゆっくりと歩き始めたが、すぐに魔物を探し回るような真似はしなかった。まず優先すべきは、分岐点の位置や帰り道の確認、他の冒険者たちの行動範囲を把握することだった。迷宮では戦う技術だけでなく、生きて帰るための準備や判断力も求められる。
「走ると体力が持たないので、焦らずに確実に進みましょう」
「その通りですね。初めてですし、今日は慣れることも大事だと思います」
会話を交わしながら歩みを進めていたその時、不意に前方から低い唸り声のようなものが聞こえてきた。レインは反射的に片手を上げ、後ろを歩くリリアへ停止を促す。
「……止まってください」
囁くような声に、リリアは無言で杖を握り直した。チビも耳を立てながら前方を見据え、空気の変化を探るように鼻を動かしている。やがて通路の先から現れたのは、小柄な人影だった。緑色の肌にぼさぼさの髪を持ち、錆びた短剣を握りしめたその姿は、冒険者なら誰もが知る魔物と一致していた。
「ゴブリンですね。落ち着いて対処しましょう」
リリアの声は冷静だったが、杖を握る指先には僅かな震えが見える。
「はい。相手の動きを見ながら対応すれば大丈夫なはずです」
そう返事をしたレインだったが、胸の奥では心臓が激しく脈打っていた。ゴブリンそのものは決して珍しい存在ではなく、新人冒険者でも十分に対処可能な相手だと資料室の図鑑で読んでいる。しかし、実際に迷宮の中で対峙すると話は別だった。逃げ場の少ない石造りの通路と、肌へまとわりつくような緊張感が、頭で理解している知識を簡単に吹き飛ばしてしまう。
「ギャアッ!」
奇声を上げたゴブリンが、一気に距離を詰めようと駆け出した。
「来ます!」
リリアの警告を受けながら、レインも短剣を構えて前へ踏み込む。しかし、予想していた以上にゴブリンの動きは素早く、慌てて振るった短剣は虚しく空を切った。次の瞬間、振り回された棍棒が革鎧の肩口を強く打ち据え、鈍い衝撃が全身へ走り抜ける。
「うっ……!」
よろめいたレインの脳裏に、一瞬だけ冷たい恐怖がよぎった。もし相手がゴブリンではなく、さらに強力な魔物だったならば、この程度では済まなかったかもしれない。
「落ち着いてください! 少し力が強い程度と図鑑に書いてました!」
リリアの声が耳へ届いたことで、乱れかけた思考が少しずつ整理されていく。
「キュッ!」
チビが素早く駆け出し、ゴブリンの足元を走り回りながら注意を引き付けた。魔物の視線が一瞬だけ逸れたことを確認すると、レインは大きく息を吸い込んで短剣を握り直す。怖くないわけではないし、足が震えないわけでもない。それでも、今まで積み重ねてきた経験は無駄ではないはずだった。棍棒を振り上げたゴブリンの動きを見極め、レインは半歩だけ身体を横へずらす。生まれた隙を逃さず突き出した短剣は、ゴブリンの脇腹へ深く突き刺さった。
「ギャッ……!」
苦悶の声を上げて動きを止めた相手へ、レインは震える腕に力を込めながら再び短剣を振るう。二度目の一撃を受けたゴブリンはその場へ崩れ落ち、やがて灰となって迷宮の石床へ散っていった。戦闘が終わった途端、レインはその場に立ち尽くしたまま荒い呼吸を繰り返した。握り締めた短剣には汗が滲み、心臓の鼓動もまだ落ち着かない。
「大丈夫ですか? かなり顔色が悪いですよ」
「大丈夫です。ただ、思ったより余裕がありませんでした」
落ち着けば十分に勝てる相手だったはずなのに、実際の戦闘では恐怖と緊張によって視野が狭くなっていた。頭では分かっていても、命のやり取りは訓練とはまるで違う。
「でも、ちゃんと勝てましたから。最初としては十分だと思います」
リリアが優しく微笑みながらそう言葉を掛けると、チビも胸を張るように鳴き声を上げた。
「キュッ!」
「確かに、チビがいなかったらもっと危なかったかもしれないな」
頭を撫でられたチビは満足そうに目を細め、得意げに尻尾を揺らしている。その姿を見ているうちに、張り詰めていた緊張が少しずつ和らいでいった。迷宮は怖い場所だった。ゴブリンは決して強敵ではなかった。それでも実際に命を懸けた戦いを経験したことで、一つだけ確かなことが分かった。恐怖が消える日など来ないのかもしれない。それでも冒険者は、その恐怖を抱えたまま前へ進まなければならないのだ。
「少し休憩したら先へ進みましょう。まだ探索は始まったばかりですから」
リリアの言葉に、レインは静かに頷いた。決して格好の良い勝利ではなかった。それでも確かに、三人は冒険者としての最初の一歩を踏み出していたのである。




