09 カイとエルザ
ミノタウルスが棍棒を振り上げた直後、迷宮の薄暗い空間を銀色の軌跡が切り裂いた。あまりに速い一閃で、レインの目はその動きの全貌を捉えることができなかった。黒い鎧を纏った男の姿が視界から掻き消えたように見えた次の瞬間、重たい何かが石床へ叩きつけられる鈍い音が迷宮内へ響き渡る。
状況を理解できないまま視線を向けたレインは、石床へ転がっていたものを見て息を呑んだ。そこに落ちていたのは巨大な棍棒ではなく、それを握ったまま肩口から切断されたミノタウルスの右腕だった。切断面から大量の鮮血が噴き上がり、つい先ほどまで圧倒的な存在感を放っていた怪物が、自らの身に起きた出来事を理解できないかのようにその場で立ち尽くしている。
やや遅れて、迷宮全体を揺るがすほどの絶叫が響き渡った。怒りと苦痛の入り混じった咆哮によって、周囲の空気までも震えているように感じられる。しかし、その絶叫の中心にいるはずの男は、すでに数歩離れた位置へ移動しており、大剣へ付着した血を軽く払うように振り抜いていた。
「なんでこんなところに」
呟かれたその一言には、驚きよりも厄介事に対する舌打ちに近い響きがあった。何を指しているのか、レインにはすぐには分からなかった。それでも、自分たちが命懸けで逃げ回り、短剣では傷一つ満足に与えられなかった怪物を、この男はたった一度の斬撃で片腕ごと切り落としてみせたという事実だけは、はっきりと理解できた。
呆然と立ち尽くすレインたちをよそに、男は片腕を失ったミノタウルスへ視線を戻した。まだ息のある魔物は苦痛に喘ぎながら後退しようとしていたが、その動きは先ほどまでの俊敏さからは程遠い。
「エルザ、頼む」
男が短く声を掛けると、隣に控えていた銀髪の女性が静かに杖を掲げた。詠唱と呼べるほどの長い言葉は必要ないらしく、放たれた光の矢がミノタウルスの眉間を正確に貫く。断末魔の声すら上げる間もなく、巨体はゆっくりと崩れ落ちていった。
迷宮の中に静寂が戻る。
レインはようやく詰めていた息を吐き出した。膝から力が抜けそうになるのを堪えながら、目の前で起きたことを頭の中で整理しようとする。自分たちが死を覚悟して逃げ続けた相手が、たった二人によってこうもあっさりと片付けられてしまった。その落差に、まだ思考が追い付いていなかった。
「大丈夫か、お前ら」
男がこちらへ歩み寄りながら声を掛けてくる。近くで見ると、想像していたよりも若い顔立ちをしていた。二十代半ばか、それより少し上だろうか。無造作に肩まで伸びた黒髪の下から覗く目には、油断のない鋭さと、それでいてどこか気さくな色が同居している。
「は、はい……なんとか」
レインが答えると、男は倒れたミノタウルスへ一度視線をやり、それから呆れたように息を吐いた。
「新人だろ。よく一階層でこいつと当たって生きてたな」
「逃げるだけで精一杯でした」
「それでいい」
意外な返事に、レインは思わず顔を上げた。
「逃げて生き残った奴の方が、無理して死んだ奴より百倍マシだ」
その言葉には、実際に何人もの新人を見送ってきた者だけが持つ重みがあった。軽い口調とは裏腹に、その一言だけで長く冒険者として生きてきた歳月が透けて見える。
「俺はカイだ。《白狼の牙》ってクランで、まとめ役みたいなことをやってる」
「カイさん……」
聞き覚えのある名前だった。ギルドの噂話で何度か耳にしたことがある。深層攻略を目指す実力派クランの名として。
「こっちはエルザ。回復と支援をやってもらってる」
紹介された銀髪の女性は、小さく会釈をしただけで多くを語らなかった。それでも纏っている空気だけで、只者ではないことがレインにも伝わってくる。
「怪我はないな?」
エルザがリリアへ問い掛けると、リリアは慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です……多分」
「なら良かった」
そう答えると、エルザは興味を失ったように魔物の死骸へ視線を移した。素材を確かめるつもりらしく、慣れた足取りでそちらへ歩いていく。
カイは腕を組みながら、レインとリリアを順番に眺めた。
「一階層でこの図体に出くわすなんざ、正直運が悪いとしか言いようがねえ」
「本来はいない魔物なんですか?」
「深層の奴が迷い込んできたんだろうよ。たまにある」
カイは肩をすくめると、大剣を鞘へ収めながら言葉を続けた。
「まあ、今日はツイてなかったな。だが命があるだけマシだと思え」
その言葉にからかいの色はなく、ただ事実を淡々と述べているだけのように聞こえた。
「これに懲りて冒険者を辞めるか?」
「……いえ」
レインは即答した。考えるより先に言葉が出ていた。カイは意外そうに片眉を上げると、次の瞬間には愉快そうに口の端を上げる。
「いい返事だ」
そう言って、カイはレインの肩を軽く叩いた。
「無茶するなよ。今日みたいに、逃げる判断が早ければそれでいい」
短い言葉だったが、その一言はレインの胸に確かに刻み込まれた。
素材の確認を終えたエルザが戻ってくると、その手のひらには淡い光を帯びた魔石が乗っていた。カイはそれをつまみ上げると、迷うそぶりも見せずにレインへ差し出す。
「ほら、受け取っとけ」
「え……いえ、これは僕たちが倒したわけじゃないので」
「関係ねえよ」
戸惑うレインに対し、カイは軽く肩をすくめただけで手を引っ込めなかった。
「お前らがあの場で無闇に突っ込まず、逃げるって判断をしたから、この魔物はまだこの階層に留まってた。おかげで俺たちも仕留めやすかった。判断が的確だった分の礼だと思っとけ」
「それに、ここまで生き延びたこと自体、お前の実力のうちだ。運が良かっただけじゃ、あそこまで粘れねえよ」
淡々とした口調の中に、確かな評価の色が滲んでいた。レインは差し出された魔石をしばらく見つめてから、両手でそっと受け取る。掌に伝わるひやりとした感触と、思いのほかずっしりとした重みに、この日一日で起きた出来事の大きさを改めて実感させられた。
「あ、ありがとうございます」
「礼はいらねえ。それより、次はもうちっと稼げる階層で会おうぜ」
カイはそう言って、軽く手を上げながら踵を返した。
「ま、また会うこともあるだろ。せいぜい死なずに続けろよ」
それだけ言い残すと、二人は迷宮の奥へ向かって歩き出す。深層を目指す者たちの足取りに迷いはなく、あっという間にその背中は暗がりの中へ溶けていった。
残されたレインとリリアは、しばらくその場から動けなかった。
「……すごい人でしたね」
ようやく口を開いたリリアの声には、まだ驚きの色が濃く残っている。
「ああ」
短く答えたレインは、崩れ落ちたミノタウルスの死骸を見つめた。あれほど恐ろしかった存在が、今はただの残骸となって迷宮の床に横たわっている。自分たちがどれほど非力か、そして世界にはどれほどの実力差が存在するのか、改めて思い知らされた出来事だった。
それでも不思議と、心は沈んでいなかった。
いつか自分もあの域へ辿り着けるだろうか。今はまだ、想像することすら難しい。それでも、目指すべき先が確かに見えたことだけは分かった。
「行きましょうか」
レインが声を掛けると、リリアも小さく頷く。
膝の震えはまだ完全には収まっていない。それでも、足を止めているわけにはいかなかった。二人は気持ちを立て直しながら、再び通路の奥へと歩き出した。




