03 油断すれば死ぬ
レインたちはその後も迷宮の探索を続けていたが、初めて足を踏み入れた場所で無理をするつもりは最初からなかった。未知の通路を次々と進んでいくよりも、安全に戻れる道筋を把握することの方が重要だと考えていたからである。迷宮では戦いに勝つことだけでなく、生きて帰ることもまた冒険者に求められる技術だった。だからこそ、レインは慎重に周囲へ視線を巡らせながら、一歩ずつ確実に歩みを進めていた。
通路を進む最中も、レインの意識は常に周囲の地形へ向けられている。曲がり角の位置や分岐の数だけでなく、壁に残された傷や天井に走る亀裂まで、一つひとつを記憶に刻み込もうとしていた。迷宮は同じような景色が続くため、目印を見落とせば簡単に方向感覚を失ってしまう。後ろを振り返る回数が多いのも、帰路を確認するための習慣だった。
そんな中、不意にレインの足が止まった。何かを見つけたらしく、彼は静かにしゃがみ込むと石床へ視線を落としている。隣を歩いていたリリアもその様子に気付き、声量を抑えながら問いかけた。
「何かありましたか?」
「この先、魔物が多いかもしれません」
返ってきた言葉に、リリアは驚いたように目を瞬かせた。レインは石床の端に残された細かな傷を指差しながら、自分の考えを説明していく。
「この擦り傷、甲虫系の魔物が通った跡に似ているんです。顎や足先が石を削った時に、こういう細い線が残ることがあります」
「そんなことまで分かるんですか?」
「ギルドの資料室でそんな説明を見たことがあります。ただ、絶対とは言い切れません」
断定するほどの自信はなかったものの、経験から来る違和感が警鐘を鳴らしていた。レインは左右へ伸びる通路を見比べ、右側には同じような傷が連続していることを確認する。一方で左側には痕跡が少なく、魔物の往来も比較的少ないように思えた。
「左から進みましょう。少なくとも、こっちの方が安全そうです」
「ちゃんと理由があったんですね」
「勘も入ってますけどね」
控えめに笑ったレインに対し、リリアも安心したように頷いた。以前の彼なら正面から進んでいたかもしれないが、迷宮へ通う中で少しずつ経験を積み重ねてきた結果、危険を避ける判断もできるようになっていた。
静まり返った通路には、二人の足音だけが規則的に響いている。どこからともなく水滴の落ちる音が聞こえ、地下とは思えないほど澄んだ風が頬を撫でていった。薄暗い迷宮の内部は不気味さを感じさせる一方で、どこか現実離れした神秘的な雰囲気も漂わせている。だからこそ、油断してしまえば簡単に命を落とすのだろう。
しばらく進んだところで、先頭を歩いていたチビが突然足を止めた。小さな鼻をひくひくと動かしながら、前方の空気を確かめるような仕草を見せている。普段の様子とは違う警戒した反応に、レインも自然と表情を引き締めた。
「何かいるな」
呟きと同時に足を止めると、リリアも無言で杖を握り直した。耳を澄ませた先からは、硬いものが石床を叩く規則的な音が響いてくる。
カツ、カツ、カツ。
一定の間隔を保ちながら近付いてくるその音に、レインは壁際へ身体を寄せながら集中した。
「一匹じゃないですね……三匹くらいだと思います」
「音だけで分かるんですか?」
「外れてるかもしれませんけど、多分そうです」
短剣を抜きながら小声で答えた直後、曲がり角の向こうから魔物の姿が現れた。犬ほどの大きさを持つ甲虫型の魔物であり、黒い外殻に覆われた身体と鋭い大顎が特徴的な存在だった。
「アイアンビートル……やっぱり」
予想が当たったことに安堵する暇もなく、三匹の魔物は一斉にこちらへ突進してくる。硬い脚が石床を叩く音が迫る中、レインは迎え撃つために前へ出ることを選ばなかった。
「壁際へ寄ってください!」
リリアへ声を掛けると同時に、自分も通路の端へ移動する。狭い通路では三匹が横並びになることはできず、結果として先頭の一匹しか十分な勢いで攻撃できない。数的不利を地形で補うのは、レインが森で学んだ戦い方の一つだった。
予想通り、最前列のアイアンビートルだけが突進してくる形となった。レインは身体を捻ってその攻撃を回避し、勢いを殺しきれなかった魔物はそのまま壁へ激突する。鈍い衝突音が響いた瞬間、後方からリリアの補助魔法が飛んできた。
「今です!」
身体が軽くなった感覚を利用し、レインは迷わず距離を詰める。狙ったのは硬い甲殻ではなく、腹部に存在する柔らかな隙間だった。短剣の切っ先が急所へ突き刺さると、アイアンビートルは短く暴れた後に灰となって崩れ落ちていった。
残る二匹が向きを変える中、今度はチビが素早く飛び出した。魔物の足元を横切るように走り抜け、注意を引き付ける。生まれた隙を、レインは見逃さなかった。体勢を崩したアイアンビートルの側面へ回り込み、短剣を深く突き込む。灰へ変わったのは一瞬だった。
最後の一匹は警戒するように大顎を鳴らしていたが、仲間を失った動きには迷いがある。そこへリリアの魔法が命中した。よろめいた隙を逃さず、レインは短剣を振り下ろす。急所を貫かれたアイアンビートルは崩れ落ち、静寂が戻った通路には魔石だけが残された。
――その直後だった。灰が風もないのにゆっくりと舞い上がり、その中から黒く光る硬い殻が一枚だけ音を立てて石床へ落ちる。
「……え?」
リリアが目を丸くする。
「これって……」
レインは目を見開いたまま、その場で固まっていた。
出た。本当にドロップした。
資料室で何度も読み返した魔物図鑑には、『アイアンビートルは低確率で胸殻を残すことがある』と記されていた。何度読んでも実感は湧かなかった。けれど今、その一枚の殻が確かに目の前へ落ちている。
レインは思わずしゃがみ込むと、壊れ物でも扱うように両手でそっと拾い上げた。
「本当に残るんだ……」
思わず漏れた声には、興奮を隠し切れない色が混じっていた。角度を変えながら眺めると、鈍い光沢を放つ表面には細かな筋模様が走っている。
図鑑の挿絵で見たものより、ずっと綺麗だ。
「レ、レイン君?」
リリアが少し引いたような表情で声を掛ける。
「あっ……すみません」
我に返ったレインは慌てて咳払いを一つすると、何事もなかったような顔で素材を袋へしまった。
「その……初めて実物を見たので、つい」
「そんなに嬉しかったんですか?」
「……はい」
少し照れ臭そうに頷くレインを見て、リリアは思わず小さく笑みを浮かべた。
「やっぱり、深くなるほど危険なんですね」
リリアの呟きに、レインは静かに頷いた。戦いに慣れてきたつもりでも、迷宮は決して油断を許してくれない場所である。少しの判断ミスが命取りになりかねないからこそ、慎重さを失ってはいけない。生きて帰るために必要なのは、強さだけではない。危険を察知する観察力と、引き際を見極める冷静さもまた、冒険者に欠かせない力なのだと、レインは改めて胸に刻み込んだ。




