02 1階層
「それじゃあ、行きましょうか」
レインが静かに声を掛けると、リリアは安心したように小さく頷いた。二人は気持ちを引き締めながら、迷宮へ続く石階段へ足を踏み入れた。地面へ向かって続く階段は思った以上に長く、進むたびに外から差し込む光が少しずつ薄れていく。やがて背後の世界は完全に途切れ、代わりに冷たい空気と湿った石の匂いが周囲を満たしていた。静まり返った空間には、自分たちの足音だけが規則正しく響き続けている。そして最下段へ到達した瞬間、それまで閉ざされていた視界が一気に開けた。
そこは自然の洞窟ではなく、人の手で造られたような広い石造りの通路が続いていた。壁には淡く光る鉱石が一定の間隔で埋め込まれており、周囲を歩くには十分な明るさが保たれている。
「……思っていたよりも明るいんですね」
リリアは周囲を見回しながら、少し安心したような声で呟いた。
「浅い階層は、こんな感じらしいですよ」
レインは資料室で読んだ内容を思い出しながら、できるだけ平静を装って答えた。
しかし、胸の鼓動は先ほどから妙に速い。
壁へ等間隔に埋め込まれた発光鉱石。 隙間なく積み上げられた石壁。
どちらも、資料室で何度も目にした攻略記録に記されていた一階層の特徴だった。
文字で読んでいた時には、ただの情報として受け止めていた。それが今、目の前にある。
「レイン君?」
「あ、いえ……何でもありません」
慌てて咳払いを一つすると、レインは通路の奥へ視線を向けた。
本で何度も見た光景なのに、実際に目にするとまるで違って感じる。
壁の質感も、発光鉱石の淡い光も、肌に触れる冷たい空気も、紙の上には残らない。
初めて迷宮へ足を踏み入れたという実感が、少しずつ胸の奥へ染み込んでくる。
淡い光が届くのは入口付近だけで、その先には何が潜んでいるのか分からない闇が静かに広がっていた。
資料には何度も目を通してきた。
それでも、実際に迷宮の空気へ触れると、本で読むのとはまるで違う緊張感が全身を包み込んでくる。
未知への期待と僅かな恐怖を胸に抱きながら、レインは迷宮の奥へ静かに一歩を踏み出した。
広い通路は大人が三人並んでも十分な余裕があり、両脇の壁には無数の傷跡が刻まれている。
剣で斬りつけたような痕や、鋭い爪で抉られたような深い傷が入り混じっていた。
これまで、攻略記録の中で何度も目にしてきた傷跡。
けれど、実際に目の前にすると、それが単なる記録ではないことを思い知らされる。
ここでは、誰かが魔物と戦い、傷を負い、それでも生きて戻った。
そして中には、戻れなかった者もいるのだろう。
自然と背筋が伸びた。
「もっと狭い洞窟みたいな場所を想像していました」
「僕もです。でも、だからこそ油断しちゃいけないんでしょうね」
レインはそう答えながら、入口付近にいる他の冒険者たちの姿へ視線を向けた。
単独で奥を目指す者もいれば、仲間同士で小声を交わしながら進む一団もいる。
誰もが一定の距離を保ちながら、それぞれの目的のために迷宮へ挑んでいた。
「まずは正規ルートを進みましょう。ギルドでも、最初は目印から外れないようにって言われていましたから」
地上より空気はひんやりとしていたが、息苦しさはない。
それでも、地上とは違う静けさが辺りを包んでいる。
二人は互いに周囲を警戒しながら、慎重な足取りで通路を進み始めた。
少し進んだところで、通路の奥に何かが動く小さな影をレインは見つけた。
レインはすぐに歩みを止め、無言でリリアへ手を上げて合図を送る。
革袋から顔を覗かせたチビも低く鳴きながら、前方をじっと見つめていた。
「どうやら来るみたいですね」
リリアは緊張した面持ちで杖を握り直し、ゆっくりと息を整えた。
やがて姿を現したのは、ウサギによく似た姿をした小型の魔物だった。
全身は灰色の硬い体毛に覆われ、額には短く鋭い角が一本だけ生えている。
レインはその姿を観察した。ホーンラビット、資料で見た姿とほとんど同じだ。
図鑑には角の長さは十センチ前後と記されていたが、目の前の個体はそれより少し大きく見える。
実際に見ると、同じ種類でも個体差があるのだろうか。
そんなことを考えている間にも、ホーンラビットはレインたちの様子を窺っていた。
一体ではない。
互いに距離を取りながら、二体がこちらを警戒している。
次の瞬間、二体は一斉に地面を蹴った。
「リリアさんは下がっていてください」
レインが短剣を抜き放つと、リリアは素早く一歩後方へ下がった。
チビは横へ素早く駆け出し、一体の注意を引き付けるように立ち回る。
一体がチビを追い始める一方で、もう一体は一直線にレインへ突進してきた。
レインは半歩だけ身体を横へずらし、その勢いを利用するように短剣を振り抜く。
手応えは決して深くなかった。
それでも、刃を受けたホーンラビットはその場で動きを止める。
次の瞬間、その身体は砂が崩れるように灰へと変わり、あとには小さな魔石だけが残された。
レインは思わず魔石へ目を向けた。
資料で読んだ通りだった。
魔物の死体が残らず、灰へ変わる現象。
何度も記録を読んでいたはずなのに、実際に目の前で起きると妙な感覚がある。
「……本当に、灰になるんですね」
思わず小さく呟いた。
知識として知っていることと、自分の目で見ることは違う。
そのことを、レインは迷宮へ入ってから何度も思い知らされていた。




